2014年6月13日金曜日

上賀茂神社・社家町


上賀茂神社
自動車お祓い所
大学の一般教養のレポートで、建造物・構築物等の保存と活用を行っている地域を見学してレポートを書く必要があった。

近場の重伝建に行こうと思ったのだが、美山市北の茅葺集落はもちろん、嵯峨鳥居本も遠いし、産寧坂や祇園新橋は混んでいるので上賀茂へ。







昼に大学を出て、自転車で北上。下鴨西通を延々と北上して上賀茂神社に到着。境内が広く、市バスの駐車場やら定期利用者の駐輪場やらが存在。それでもまだ広い。流石郊外。

自動車お祓い所があった。境内の中に突然現れる。柵や屋根が有るのかと思ったが。


 
 また、神道の古式を伝える遺跡として、かつて神職と勅使が対面する儀式を行っていた岩場があった。これも現在は境内の一角にあり、特に構造物に囲まれてはいない。








境内にある賀茂山口神社の入口に神聖な扱いを受けている岩を発見。陰と陽の融合した姿らしい。


二葉姫稲荷神社。景色が良い、と看板にあったので坂を上がっていく。
景色。京都タワーまでは視認できた。それより先に山も見えたが、名前が分からない。










神社脇から東西に延びる社家町。神職の屋敷が立ち並ぶ。道路と家の間に明神川を挟み、川の水を庭で利用。

2014年5月15日木曜日

今日の授業は葵祭に行きます

葵祭に行ってきた。授業で。

木曜2限はスポーツ実習。私はサッカーなどを選ぶはずもなく、当然のウォーキング選択者。

京都では大学周辺のウォーキングとなると当然史跡めぐりになる。前回は下鴨神社であった。受講者のほぼ全員が文学部なので、神道や日本史について語りだす。

そして今回は葵祭。行列が河原町通丸太町~今出川を通過する時刻と授業時間が見事に被った。ということで、大学から河原町丸太町まで歩き、そこで現地解散し各自見学。

といっても、下調べしなかったし、人ごみが酷く、しっかりは見ていない。感想としては、牛車がうるさいこと。牛が暴れるのではなく、木製の車輪がかなりきしむ。牛車で混雑した往時の公家屋敷は「雅」とはかけ離れた雰囲気だったかもしれない。

行列を追い越しつつ河原町通を北上し、下鴨神社に行った。ここで行列を先頭から見送った。そして境内に行列に有ったので、とりあえず並んでみた。

しかし中々進まない。モラルの欠けた人々は立ち入り禁止の場所に侵入したり警官の指示を無視したり、ひどい有様。「そこに入らないでください」よりも「世間様の見る前でそんなことをして恥ずかしくないんですか」「お孫さんが今のあなたをみたらどう思うでしょうね」とか注意した方が効果ある気がする。

結局、最奥部までは当分入れないと分かったので途中で撤退。まずまずの収穫。


引っ越して未だ1月と少しだが、「京都在住のゆとり」は出てきたと思う。どうせまた来れるから今日の見学に本気にならなくてもね、という。


そういえば、フィットネスの受講者と河原町通で有ったので、あちらも葵祭に来た模様。葵祭を理由に休講になった授業も有るらしい。流石京都。

2014年5月10日土曜日

京都市立小学校建築探訪 旧開智小学校編

東京の「復興小学校」のデザインや歴史的背景が好きなので、今度は同時代の京都市立小学校の建築を見に行った。

※復興小学校:関東大震災後で東京の小学校の多くが校舎を失った後に、基本的には一定の規格に沿って作られた小学校。

まずは旧開智小学校。1935年の作。現在は学校歴史博物館に転用されている。展示内容は面白いのだが、あまり関係ないので省略。
正門前の道路。普通車のすれ違いは不可能なのでは。正門前がここまで狭いと混雑など色々大変そうだが、京都市中心部なので仕方ない。
正門。同時代の東京の小学校の正門は石柱の間に鉄製の門が付くのが多かった気がする(Ex.泰明小学校フランス門)が、これは和風。
校舎。車寄せと、その上のコンクリート打ちっぱなし部分は近年の設置。

教室の窓の下の黒い点は換気口だと思う。東京のものでは、明石小学校の写真で同じものが確認できた。

ちなみに、同時代の旧制中学校舎である麻布学園教室棟には、外見が似るが穴が貫通していないため機能性は無いものがある。


3階部分から一部分だけ上に飛び出している。ここが階段。ありがちな構造だろうが、東京の常盤小学校を思い出した。

いざ内部へ。
床は板張り。雰囲気は東京の復興小学校にまあ似ていると言って良いのでは。

しかし、見過ごせない大きな違いがある。教室内の柱の本数である。東京では教室の中間に2本の柱を入れる規格を作成してそれに基づいて建てたが、ここは1本である。東京が2本入れる理由は関東大震災を教訓とした耐震性への配慮であろう。
また、教室と廊下の間の窓の高さも違う。東京では外から覗けない高さまで壁を作り、その上に窓を設置した。しかし、ここでは窓が低く小学生でも覗き込める。この高さの意味については当時の教育思想が関係していたはずだが、本が手元にないので省略。
(「関東大震災と「復興小学校」学校建築にみる新教育思想」に書いてあったと思う。)




  階段。茶色の部分は人造石研ぎ出しというありがちな素材。










 壁と天井の接合部に「繰型」というものがある。ただのデザインだが、細部に一芸を光らせるのは良いこと。現代の学校には無い気がする。

全体の感想としては、カクカクした印象を受けたので、あまり好みではなかった。丸柱とかアーチ窓が好き。
(「カクカク」というのは東京の小学校規格検討の際に批判されたことの1つだったと思う)

ただ、部分的には良いものがあったし、東京と京都の比較が出来たので有意義だった。

2014年5月7日水曜日

今宮祭2014

5月5日に今宮祭に行ってきた。大学の課題で京都近辺の祭りの見学レポートを書かなければならないので。

神社の歴史はココを見ればわかるので割愛。

10時に神輿を拝殿から降ろすので、9時15分ごろに神社入り。

9時25分ごろに地元の男性達が集まってくる。 老いも若きも。しかし女性は子供を除いていない。

9時55分ごろに集合がかかり、参加者たちが本殿で礼拝。 この時間はあいにくの本降りの雨。神輿の側面を透明ビニールで覆ってから舞台から降ろした。降ろすときの掛け声が「ワッショイ」ではなく「エイサ」「ホイショー」「ヨーサー」などだった。「ワッショイ」の掛け声も後に氏子地域内を引き回すときには上がっていたが。

神輿を下すと、担ぎ手を増やすために更に長い棒に神輿を接続する。舞台に上げられているときの神輿は、担ぐための棒がかなり短い。

ちなみに、「担ぎ手」と書いたが、ここの神輿は担いで巡幸するのではない。基本的には台車に載せて綱で引っ張り、主要な交差点数か所で台車から降ろして少し動き回る。人が足りないらしい。まあ、トラックで巡幸する神社もかつてあったそうなので、人が居ないことはないのだろうが。


この接続に結構時間がかかり、11時に神輿が神社を出た。本降りの雨なので、鉾など神輿以外の巡幸は省略。残念。
私が着いて行った大宮神輿は神社から北東の地域を一周した。沿道にあまり人は居なかったと思う。






この巡幸は午後に比べれば短いもので、12時には神社へ帰着した。そこで担ぎ手の昼食休憩も取られた模様。

待機している神輿を女性観光客がベタベタ触っていた。すると地元の女性から「女の子は触らんといて」と注意。ここは女神輿を導入していないので、神輿は男の仕事。

12時40分に再度集合がかかり、今度は大規模な巡幸にかかる。 今宮通を西進して千本通を南下、北大路で東に入り旧大宮通まで。ここが大徳寺前。京都新聞の写真はここで撮られていた。

さらに旧大宮を南下し、低層木造家屋密集地域に入る。所謂西陣、織物業者が多い。しかし休日な上に神輿で騒がしいので織機の音は聞こえず。
普通車がすれ違えるかどうか怪しいような道を大きな神輿が進んでいく。標識にぶつかりそうになることもあり、難しそうな巡幸である。

ただ、こういう地域になると一家・親族・隣近所で集まって宴会をしながら神輿を待ち、神輿がやって来ると外に出てくる家も増えたように思う。

こうして千本寺之内に出た。寺之内通を西進し、 また小路を進んでいく。ここも織物業者が多い。神輿の休憩が長かったので静かな路地をさまよっていると、織物業の看板も出さない小さな日本家屋から織機の音が聞こえてくる。これが西陣織の制作現場なのだなぁ~と感動していた。教科書の一問一答的記憶が、こうして身体の記憶となっていく。

その後、千本通へ出て北上する。この辺りでは鉾を門前に飾る家がいくつかあった。町として鉾を所有している地域である。










千本通を東に入り、小路を抜け、大宮通を北大路の近くまで北上すると御旅所に到着する。御旅所とは仮設の物かと思いきや、日常的に神社の管理地であり建物もたっている。ここには雨の中屋台が立ち並び、賑わっている。無事神輿が台に乗せられたのを見届けて、さっさと帰った。文章だと軽い散歩に見えるかもしれないが、午前中1時間・午後4時間、普通の鞄とカメラバッグを担いで歩き回っているのだ。久しぶりに疲れた。


2014年4月19日土曜日

ミッドナイト念仏

18日の夜、お好み焼き屋に居たら友人から「知恩院でミッドナイト念仏をやるぞ」というメールが来た。これは明らかに「行って来い」という振りだろう。乗らない訳にはいかないので行ってきた。

ミッドナイト念仏とは法然上人の忌日法要に合わせて国宝・三門の楼上で一晩中念仏を唱える行事。名前からわかるとおり、若者などの参加を歓迎している模様。

これは午後8時から午前7時まで実施されているので、相当に気合の入った方は11時間参加していればよいが、私は無理なので途中参加かつ途中抜け。それでも良い、というかほとんどの人はそうする。

2時過ぎに北白川の家を出発して東大路を南下していく。本当に静か。歩行者は当然居ないが、自動車も殆ど居なかった。意外。

2時半に知恩院に着いた。電車・バスが無い時間なので、タクシーの出入りがちょくちょく有る。参加者は近場住民に限らない模様。

写真の三門まで歩いていくと、木魚を叩く音が外にまで響く。かつてない雰囲気。そして意外や意外、若者中心に50人以上の行列。歴史好き・熱心な信者という雰囲気ではなく、いわゆるチャラい系が多い。いや、念仏を唱えに来るのだから普通のチャラ系とは何か違う気もする。さらに、行列が中々進まないので、一部の集団が「空くまで酒を飲みに行こう」といって消えていった。この様な参加者層である。まあ、仏教に触れることは触れているのだから良い面もあるだろうが。

並びに並び、1時間。3時半になって入場した。楼上に上がる階段の下でお坊さんから「念仏なう、と書き込みたい気持ちはわかりますが、楼上ではご遠慮ください。ただ終了後は歓迎です。」との呼び掛け。

楼上からの夜景は綺麗だった。 京都は超高層ビルが無いが、山が近いので高い場所に行きにくくはない。

楼上の部屋に入った。極彩色だが薄暗く、派手さは感じない。正面に仏像がおり目が合う。宗教的空間。

激しい木魚の音。BPMは多分200。「ミッドナイト念仏」なのに、参加者のほとんどは何も唱えていないか小声である。そこは残念。

正座して、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏~」と唱えていく。これを延々と続けていく。木魚の音に包まれた2時間半。

そして、脇の戸口から光が見えた。夜が明けたので6時に帰った。悟ったりトランス状態になったりはしなかったが、木魚のポクポク鳴り響く独特の空間に惹かれるものはある。京都市民であれば来年以降、短時間でも行ってみればよいのではないか。


=その後=
この様に徹夜した後、TOEFLを受けに大学へ。コンディション最悪かつ強制受験制度に賛成できないので鉛筆転がして寝る。

2014年4月13日日曜日

蹴鞠観覧&河原左大臣を訪ねて

京都御所の一般公開は春と秋にある。今日は春の一般公開最終日だったので混雑は予想できたが、蹴鞠の披露が今日だけだったので行ってきた。

御所は宜秋門という門から入ったが、大行列。手荷物検査のせいかと思いきや、随分簡単な検査だった。本当に人が多かったのである。例えたら、「ルーブル美術館展」などをやっている時の国立西洋美術館。自由に観覧していくというより、流れに乗っていく感じ。

10:15に着いて流れに乗って観覧していると、10:30を過ぎた。11時から蹴鞠の披露だが、11時に行っても見られる気がしなかったので、10:35から陣取っておいた。一応最前列を確保。


広場に臨時の蹴鞠場が砂を盛って作られていた。御所には正式な蹴鞠場があるのだが、今日はギャラリーが多いので臨時に略式のものを作ったとのこと。(本当は蹴りあげる高さの基準としてフィールドの四隅に植える植物の種類が決まっているなど色々あるのだが…詳しくはwikipedia辺りへ。)





定刻。 松っぽい植物の枝に鞠を挟んで運んでくる。そこら辺に御幣でも立ってそうな雰囲気。

貴族のゲームなので身分差がゲームに絡んでくる。今回は烏帽子の紐がただ一人紫色の男性が「最も高貴」という設定らしい。
ちなみに女性も参加している。ただ烏帽子は被らない。












さて、競技開始。鞠は鹿皮の手作り品なので、それぞれとび具合が異なる。だから、競技が始まると、まずは各人が3~4回蹴り上げて感触を確かめる。 




 今回は8人で行っていた。1ゲーム15分~20分ほど。wikipediaによると「落とした人が負け」「続いた回数を競う」など勝負用のルールも一応あるようだが、少なくとも今回はゆるゆる蹴り続けていくだけ。

そういうと、まったりした遊びに聞こえる。しかし、そうでもなかった。砂埃が上がるし、転びかける、ぶつかりかける…などなど予想より激しい。また、蹴るたびに「アリ」「ヤァー」など掛け声をあげるので静かでもない。後半になると水干が随分汚れていた。

さて、競技であるが、これが意外と続かない。日本一蹴鞠が上手い方々なのだろうが、革靴でいびつな鞠を蹴り上げるので難易度は高いよう。後半になるにつれて続くようになってはいたが。

そんなことで15分くらい経ち、蹴り上げられた鞠を最も高貴な人が手で受け取りゲーム終了。もう1ゲームが別の方々によって行われたが、同じ内容なので説明省略。

こうして蹴鞠観覧は終了。華やかな衣装、独特の掛け声、意外と激しい動き。伝統芸能というと見てて眠くなるようなもの、というイメージが無いこともないが、これは全くそんなことはなく熱中して見られるのではないか。京都に限らず東京でもやっていることがあるので、一度見てみることをオススメする。

(御所の建築?あぁ混み過ぎてろくに見れなかったのでカットします…。)


午後は河原左大臣源融の暮らした河原院跡を訪ねる。9世紀に暮らした嵯峨天皇の皇子。臣籍降下して嵯峨源氏になっている。ちなみに酒呑童子を退治した渡辺綱は融の子孫。

何故に融が有名かというと、まずは光源氏のモデルの1人と言われていることがある。河原院が光源氏の六条院のモデルとも言われる。

また「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに」が百人一首に入集していることもあるだろう。

ただ私は源氏通読も百人一首暗もしていないので、伊勢物語で出会った。上の歌は伊勢物語初段で「昔男」によって詠まれるし、81段には明らかに融のことを指す「左の大臣」が登場する。

伊勢物語81段は融の河原院で宴会が有り、「昔男」が河原院を称賛する次の歌を詠むものである。

「しほがまに いつかきにけむ あさなぎに つりするふねは ここによらなむ」

河原院は、歌枕・塩竈の風景を模して作られ、融は運び込んだ海水で製塩もしたと言われる。 そのため、昔男は上の歌を詠んだのである。ちなみに「塩竈」は製塩用かまどのことだが、現・塩竈市付近のそれが有名になったため、地名となった模様。

まずは渉成園へ。ここは17世紀に徳川家光の支援で東本願寺が作った庭園だが、融の河原院を真似て作ったと言われる。そのため、融の供養塔といわれる石塔(これは誤りらしい)、 外見が似ることから「塩竈」と呼ばれる石を組んだ泉、融が塩を焼いたといわれる釜の手水鉢などがあった。ただ、いずれについても現地に説明板は無いので注意。














次は本覚寺へ。ここは本物の河原院の跡地の一角らしい。中に入れなかったが、塩釜神社が境内にあり、融の像が安置されているとか。

高瀬川まで少し歩くと、「河原院跡」の石碑発見。 脇の木は河原院の木の生き残り、と言われてはいる。
















河原町通を若干下ると「本塩釜町」の表示発見。そう、この一帯の住所は「本塩釜町」。河原院の庭園は後に荒廃し、「やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」と恵慶法師に詠まれてしまっているが、その名残を地名として今に残しているのだった。
 
やはり政治に名を残した人物より文化的逸話を残した人の方が魅力的ですね。ちなみに融と対になるのは藤原基経。史上初の関白。

2014年3月27日木曜日

麻布学園普通教室棟に関する一考察

 高3の夏休みに1日で書いた原稿をコピペ。まともに調査していないのでクオリティはお察しください~。

 私は(自称)建築趣味者なので、そこそこ見学にも行ったし文献を読んだとも思う。その結果としてこの考えに至った。「我らの校舎にもう少し目を向けるべきなのではないか?」私としては、麻布学園教室棟は類まれな価値を持っていると思っている。しかし、生徒の間で話題にもならず、学校側もwebや説明会でアピールすることがない。100年史の建築分野も浅い調査と言わざるを得ない。このまま無関心が続き、老朽化による即時全面解体に至るのは非常にもったいないのではないか。深い興味は持たなくとも、その歴史を知ることは、麻布生としての誇りや卒業してからの母校愛などの獲得において大きな要素になるのではないか。本稿では、教室棟に特徴的な事物を幾らか紹介していく。ただ、残念ながら私には残された時間が少なかった。本稿では大まかにしか触れられないので、後代の人間が本格的に調査し発表することを期待している。

基本データ・鳥瞰図
 本稿では、教員室のある部分を除くコの字の教室棟について扱う。他の部分に関しては、少なくとも現在においては、歴史的な思い入れもないし、見るべき意匠もあるように思えなかった。
コの字の一辺は約60m。時計台(現在は校章が貼られているが)を頂点とする二辺は、1932年築の第一期校舎であり、残りの一辺が1937年築の第二期校舎である。全体として地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート構造である。

建築当時の歴史的背景
 以前の校舎は木造であり、関東大震災をなんとか耐えている。しかし、老朽化や生徒数増加により改築されることとなった。昭和初頭というと関東大震災復興小学校が都内に一斉に建てられ終わった辺りの時代であり、本校舎もその影響を強く受けていると思われる(後述)。校舎建築の基金は1917年から作られており、震災などで中々集まらなかったが、江原素六の人望により三井や三菱から多額の寄付があったようだ。そこで1930年から日本が恐慌に陥った。学園はそれによる資材価格下落を利用し、その基金と在学生からの寄付などで建築に踏み切った。このようにして、第一期校舎は完成した。
 その後、さらに生徒が増加した為、1937年に第二期校舎が完成した。といっても、この増築は当初から計画されていたらしい。現在では狭いと言われる麻布学園だが、当時としては都内で数少ない施設とされていたようだ。(実際、広いと言われている学校は都心にないことが多い。狭さを嫌って郊外へ転出した私学も多い。)
こうして現在のコの字部分は完成した。その後については割愛する。

関東大震災復興小学校
 教室棟の構造は、関東大震災で全壊し(半分以上が全壊した)その後改築された東京市立小学校と多くの共通点を持つ、というより本稿で挙げる特徴は復興小学校の特徴ばかりなので、これを抜きにしては語れない。
 震災後、東京府は「復旧」ではなく「復興」を宣言した。これは従来の町を再構築するのではなく、新時代にふさわしい街を作っていくというものだ。学校建築の改革もこの枠組み内の出来事である。東京市が主導して行った小学校建築の際には階数から窓の高さまで様々な規格が設けられ(規格の全文はインターネットと近所の図書館では見つからなかった。国会図書館にでも行って欲しい。)、それに大体沿って工事が行われた。細かい数字は置いておいて、コンセプトは以下のような物だ。

・防災
 木造校舎の危険性は震災以前から言われていて、東京での新築は禁じられていた。復興小学校は全て、国内の小学校としては神戸などの一部の小学校にしか使われていなかった鉄筋コンクリートを採用した。さらに、耐震性を重視した結果、太い柱を多く入れることとなった。
また、教室から3分以内に屋外への避難ができるに設計され、行き止まりを作らないなど、階段・廊下の幅や配置に配慮が見られる。

・教育環境
 戦前の教育というと軍国教育や軍事教練ばかりしていたように言われるが、その多くは戦時体制の国民学校の話である。震災後においては、教育は児童の心理に配慮すべきという主張も強くされていたのだ。その結果、丸みを帯びたデザインや壁の塗装といったことから、水洗トイレ、ボイラー、さらにはシャワー室などの贅沢な設備が整えられた。(水洗トイレについては公衆衛生の推進という意味もあるが)
 また、採光が重視された。どの学校でも窓の面積が広くなり、換気口の作られたものもある。また、コの字型・ロの字型の校舎では廊下が外側に作られた。普通に考えれば、教室を外にした方が広い面積をとれるはずである。しかし、ここでも採光を優先し、教室を内側に入れたのだ。
 そして、天井は高い物となった。戦後の一般的な学校建築は高さ3m程度だが、復興小学校は3.5mと規格化されている、工費は上がるが、環境は改善される。

・敷地活用
 地方の古い小学校であると横長が多い。しかし、東京でそんな用地は取れなかったため、コの字型やロの字型が採用された。その内には校庭を入れたのである。(麻布の狭い中庭を想像しないで欲しい。「校庭」である。)

・復興小学校の今
 120校近く建設されたが、現存するのは定義によるが10校程度である。老朽化や近隣のマンション開発による教室不足により特に近年解体が進んでいて、現在も九段小学校が解体の方向に動いている。

教室棟の特徴
 ようやく本題である。前章を見ても、教室棟が当てはまる復興小学校の特徴が多々あると分かったであろう。ここでは、それらを中心に具体的な構造や意匠について紹介する。
なお、「復興小学校と類似するというが単に当時の一般的な建築ではないのか」という指摘をされそうなので、返答しておく。復興小学校は東京を新時代の都市とするためになされた革新的改革の一部であり、震災直前の東京の小学校とも、同時代の農村の小学校とも一線を画するモダニズム建築である。そのため、復興小学校との類似というのは特異性として語れるだろう。

・外面
 時計台部分を除けば、シンプルな構造である。塗装も白一色である。これは手抜きではなく、後期の復興小学校にも多くみられるモダニズムの流れを受けた物だろう。窓枠がアルミサッシ化されているため、現在では創建当時より地味に見えていると思う。
だが、時計台部分は内部に中央階段を配置した為に膨らみ、類を見ない独特の構造となっている。また、窓面積率が高いのも特徴である。
また、理由は不明だが、第一期校舎と第二期校舎では中庭側の柱の太さが異なる。教室間に位置する柱のみ、他の2倍になっているのだ。

・内部基本構造
 最大の特徴は中央階段である。これは、その広い幅と踊り場、そしてグランドへ抜ける位置という事からして避難用と考えられる。ただ、復興小学校の規格では、階段は更に広いものとされている。

・天井
 廊下で3.35m、中央階段のみ3.6mであった。3.5mという復興小学校の規格と同様、高くとられている。現在では貼り天井が多いが、復興小学校も教室棟も素のままである。

・廊下
 幅については、復興小学校の規格の2.7mに対して2.35mしか取られていなかった。用地の問題だろうか。ただ、復興小学校の場合は廊下にロッカーなどが置かれることが想定されていたようなので、実際は同程度だったのかもしれない。
また、理由は不明だが、第二期校舎においては柱の廊下に飛び出る幅が大きい。

・廊下外側の窓
 理由は不明だが、第二期校舎においては高さが低く、中庭側と同じ75cmである。対して、第一期校舎では中庭側より高く100cmである

・柱
 麻布は柱が多い、というくらいなら校内で常識になっている。教室内の柱の幅は54cm、柱の間隔は255cmであった。復興小学校の柱の間隔である280cmというのが柱の幅を含むのか分からないし、教室内とその他の場所で同じ幅だったのかもわからないが、ほぼ同じではある。当然ながら、同時代の一般建築や現在の建築ではここまで多くない。

・教室
 中庭側の窓の高さは75cm。また、窓が天井の柱の高さまでいっぱいに取られている。両方、復興小学校と共通することだ。
また、第一期校舎においては、廊下との仕切りとなる壁の中央上部に換気口が付いている。これは復興小学校にも見られたもので、感染症予防だったとされる。

・細部の意匠
 柱と天井の接合部に、モールディングと呼ばれる漆喰の細工がなされている。この種の細工は古い洋館などでは見られるが、何の実用的価値もないため、現在の一般的な建築では廃れている。
また、窓枠は階段状(?)のものが多く使われている。これは西洋建築の一般的な手法だと聞いたことがある。一部の教室では何の細工もない木材であるが、それらは元々大教室であったものを潰して普通教室に改装した為だと思われる。

まとめ
 麻布学園普通教室棟は、関東大震災後という時代背景に基づいた、防災思想と新教育思想の読み取れる貴重な物件であるとともに、戦後の建築では一般的でない構造や意匠が見られる。これは麻布学園の初期といって良い時代から現在までを記録している建築であるので、可能な限り現状維持とあってほしいが、数十年後には改築が避けられないだろう。その時に、時計台部分の外観のみ保存または復元され、その他の重要な特徴が見向きもされず消え、「コスパ」のみを重視した味気ない姿となるのは惜しいことである。現在の校舎に込められた思想を守りとおさずとも、せめて、この校舎には深い思想が込められていることを理解し、建築後に評価される新時代の思想を込めた改築としてほしい。

参考文献
関東大震災と「復興小学校」: 学校建築にみる新教育思想
明石小学校の建築
港区の学校建築―震災と復興
麻布学園100年史
各種webサイト(メモするの忘れた)

京大受験 ~世界史~

やり通した問題集・参考書・塾の講座を並べておきます。

ちなみに京大模試は
夏:河合71点、駿台65点←恐らく採点ミス
秋:河合73点(65.6)、駿台約90点(約70)←冊子掲載

・高2 3学期
Z会通信国公立世界史
教科書(東京書籍、山川出版)
詳説世界史学習ノート

・高2 春休み~高3 夏休み
Z会通信国公立世界史 
教科書(東京書籍、山川出版)
詳説世界史学習ノート
世界史100題
世界史B用語・問題2000

・高3 2学期~冬休み
Z会通信京大世界史 

教科書(東京書籍、山川出版)
詳説世界史学習ノート

世界史100題
世界史B用語・問題2000

・高3 3学期
Z会通信国公立世界史 

教科書(東京書籍、山川出版)
詳説世界史学習ノート

世界史100題
世界史B用語・問題2000
京大過去問(論述)

京大受験 ~国語~

やり通した問題集・参考書・塾の講座を並べておきます。

ちなみに
京大模試は
夏:河合79点(70.2)、駿台65点(57.7)
秋:河合86点(62.5)、駿台64点(55.3)
センターは
88+38+30=156点

・高2 冬休み
Z会L2J(現古漢)

・高2 3学期
Z会L2J
スピード攻略10日間古文基礎・演習
スピード攻略10日間漢文
古典文法トレーニング
古文上達
重要古文単語315

・高2 春休み
Z会E3T(現古)
古文上達
重要古文単語315

・高3 1学期
Z会E3T(現古)
ちくま評論選(学校授業用)
古文上達
重要古文単語315
センター過去問(漢文、学校授業用)
東大過去問(漢文、学校授業用)

・高3 夏休み
Z会E3T(現古)
現代文と格闘する
得点奪取古文
重要古文単語315
マーク式基礎問題集漢文

・高3 2学期
Z会E3T(現古)
東大過去問(現代文、学校授業用)
現代文と格闘する
得点奪取古文
ライジング古文
重要古文単語315
読み解き古文単語
マーク式基礎問題集漢文
センター過去問(漢文、学校授業用)
東大過去問 (漢文、学校授業用)

・高3 冬休み
駿台京大現代文
センター現代文解法の新技術
ライジング古文
重要古文単語315
読み解き古文単語
短期攻略古文
短期攻略漢文
センター過去問

・高3 3学期
Z会LKB(現古)
京大過去問(現代文、学校授業用)
センター過去問
京大過去問(古文)
入試攻略問題集(古文)
実戦問題集 (古文)
読み解き古文単語
センター漢文解法マニュアル

京大受験 ~数学~

やりとおした問題集・参考書・塾の講座などを並べていきます。学校の授業を除く。

ちなみに
京大模試は
夏:河合23点(43.4)、駿台41点(46.8)
秋:河合51点(50.6)、駿台87点(59.6)
センターは
100+96=196点

・高2夏
Z会M2A(1A2B)

・高2 二学期
Z会M2A


・高2 冬休み
Z会M2A

・高2 3学期
Z会M2A
チェック&リピート1A
チェック&リピート2B

・高2 春休み
Z会M3B(1A2B)
チェック&リピート2B

・高3 1学期
Z会M3B
チェック&リピート1A
チェック&リピート2B
標準問題精講1A
標準問題精講2B

・高3 夏休み
Z会M3B
標準問題精講2B
文系数学のプラチカ
京大の数学25カ年
黒本(センター過去問)

・高3 2学期
Z会M3B
文系数学のプラチカ
京大の数学25カ年

・高3 冬休み
Z会M3B
文系数学のプラチカ
京大の数学25カ年
マーク式総合問題集(センター)

黒本

・高3 3学期
駿台京大文系数学プレ
京大の数学25カ年
実戦問題集(京都大学)
入試攻略問題集(京都大学)
センター試験必勝マニュアル
実戦問題集(センター)
黒本

京大受験 ~英語~

やり通した問題集・参考書・塾の講座を並べておきます。 学校の授業を除く。

ちなみに
京大模試は
夏:河合100点 駿台90点
秋:河合86点、駿台96点
センターは
184+36点


・中学
Birdlandの傍用問題集

・高2 夏
Z会E2M(和訳)
Z会E2GX(文法・語法・作文)
システム英単語

・高2 2学期
Z会E2M
Z会E2GX
Vintage(文法・語法)
英作文ハイパートレーニング
システム英単語
Duo3.0

・高2 冬休み
Z会E2M
Z会E2GX
英作文ハイパートレーニング
システム英単語
Duo3.0
 
・高2 3学期
Z会E2M
Z会E2GX
英作文ハイパートレーニング
システム英単語
Duo3.0

・高2 春休み
Z会E3T(和訳・読解)
Z会E3MB(文法・語法)
英文解釈の技術100
英作文のトレーニング実戦編
システム英単語
Duo3.0

・高3 1学期
Z会E3T
Z会E3MB
英文読解の透視図
京大の英語25カ年
英作文のトレーニング実戦編
システム英単語
Duo3.0

・高3 夏休み
Z会E3T
京大の英語25カ年
ドラゴンイングリッシュ基本英文100
英作文のトレーニング実戦編
システム英単語
Duo3.0

・高3 2学期
Z会E3T
京大の英語25カ年
ドラゴンイングリッシュ基本英文100
英作文のトレーニング実戦編

システム英単語
Duo3.0

・高3 冬休み
Z会E3T
京大の英語25カ年
ドラゴンイングリッシュ基本英文100
英作文のトレーニング実戦編

システム英単語
Duo3.0

・高3 3学期
Z会EKB(和訳)
京大の英語25カ年
実戦問題集(京都大学)
入試攻略問題集(京都大学)
京大後期過去問(和訳)
ドラゴンイングリッシュ基本英文100
英作文のトレーニング実戦編
解決!センター英語リスニング
発音・アクセントの薄い問題集(名前失念)
システム英単語
Duo3.0

京大受験 ~二次試験直前~

直前というか、センター後。

センター翌日に学校で得点集計が有った。みな国語ができていなかった。総合9割越えが他に殆ど居なかったので、 やはり難しかったのだろう。

700点台前半の点数で教員に励まされている同級生が多かった。しかし彼らの中で東大に受かったのが結構いるので、得点比率からしても、今年の難易度からしても、逆転可能な点数なのだろう。

センターリサーチ等が帰ってきたが、全てA判だった。京大文学部は東大に比べればセンターが重いので、 ここで9割を超えると大きなアドバンテージになる。これで気が楽になった。

この期間も、数日Z会に行ったほかは学校に6時に着いて夕方まで残る生活を続けていた。ただ、センター前とは違って学校の講習やら添削もあったので、人と話す時間が増えた気はする。誰とも合わずに1か月間勉強するのは辛いものがあるのではないか。まあ、同級生と会ったことで数時間遊び始めた日も有ったとはいえ。

例の大雪もこの期間であった。最初の大雪の日は、午後から雪ということでカメラを持って登校した。すると昼で学校を追い出されたので、そこら中を撮影しながらゆっくり帰った。足が痛くなった。

次の大雪は、朝から学校が休校だった。しかし教室に勉強道具を置いている身なので無理やり登校して回収した。また足が痛くなった。

試験1週間前くらいになると、数学の予想問題集を解き始めた。すると60点くらいなら取れそうな気がしてきた。元々は45点取れば受かる、という話だったので心強い。

しかし、ここに来て勉強のモチベーションが下がる。ゲームに逃げるとか寝るというわけではなく、京大のシラバスや京都の町についてググっていて時間を消費していた。これで意識は高まったが、勉強時間は減った。

直前は、もはややることが無くなった気がしたので、良い形で終われたと思う。

京大受験 ~センター当日~

前日の帰り際にセーラームーンの聖地である神社に必勝祈願した。当日は無駄に早く出発したせいで時間が余り、またも前述の神社に寄った。

受験会場は東大本郷であった。入口前で教員に会い、門を入ると知り合いの集団がいて、艦これと桜trickの話をされた。桜trickとは京大でも遭遇することになる。

直前期に、センターは知識不足で失敗することはありえず精神戦だ、という結論に至った。行きの電車は音楽を聴いていて、東大に着いたらば教員と同級生に有ったので良いスタートだったと思う。

私が飛ばされた医学部の講堂は、社会1科目をはじめマイナーな受け方をする受験生を寄せ集めたものだった。そのため同室に知り合いはゼロ。普通の科目で受けると周りは同級生だらけだそうだが、知り合いがいない方が個人的には好みである。

会場は非常に古い建物で、椅子は取り付けられているプレートからして戦前の物だった。高校生は見慣れない急な階段教室、かつ外と同じ服装になるほど寒いので、緊張する人はかなりすると思う。

試験官は真面目な表情を崩さないので厳しいのかと思いきや、鞄を通路に放置しても何も言わないし、消しゴムのカバーも外さずに使えた。(京大は両方禁止)

緊張したくないので、長い待ち時間にずっと作り笑いしていた。すると途中から面白くなってきたので緊張を回避した。これは有効。

・地理
精神戦なので初めの科目の出来は重要。地理は趣味と被っているので、流石に得意。30分で解き終わって満点を確信した。(実際は満点ではない…)

・国語
いつも15分以内でほぼ満点の漢文から…あれ即答問題が少ない…えっ
古文は得意だぞ…ん?話の内容が掴めない…えっ
おや…古 典 の 一 周 目 で 4 0 分 使 っ た ぞ…
これはやばい現代文は瞬殺しなければ…意外と行けるね
残りで古典の見直し…分からんね…
あっ…時間…

140点くらいかもしれない、と怯えながらも、自分ができないなら平均は凄く低いはず、という自信はあったので持ちこたえる。

・英語
本当に普通だった。

こうして1日目は終わった。国語で爆死したのではないか、と思いつつも140点は切らないだろうし平均が低いはず、と考えた。夜は地学の見直し。

そして2日目へ。
・地学
は?…いや時間かければ出来そう…ああ出来たか
確かに難しかったが、1周目に40分かけるスローペースなら解けた。

・数学①
1Aは去年より簡単になるだろうし、そもそも簡単なはず、ということで気楽に解こうと思った。
あぁこれはできる…図形が分からん、飛ばそう…時間余裕だから図形やろう…よし分かった

40分と少しで完答した。

・数学②
1Aが満点だから確実に80点取りに行こう…あっ三角関数が消えたぞ、これは勝ったか…微積の計算複雑だから最後一つ捨てよう…他はギリギリ全部できたな

時間が厳しかったので微積の最後を捨てた。


そして帰宅、自己採点。

英語:184+46
数学:100+96
国語:88+38+30
地理:94
地学:96
合計:229/250(91.6%)

国語は170点が目標だったが、今年は難しかった。とはいえ、150点台に踏みとどまった。意地。

数学は直前に解いた過去問を少し上回った。試験中は興奮状態だったと思う。

他の科目は予想通り。

9割越えたのでセンターリサーチを待たずに京大文学部出願へ。

京大受験 ~センター直前~

正月からはセンター対策に絞った。京大文系受験者は漢文・社会1科目・リスニング・理科1科目をセンターでしか使わないので、それの対策は二次試験対策とは完全に別物である。

数学以外は早くに見通しがついたが、数学は本番1週間前くらいまでできる気がしなかった。だが問題の数をこなしているうちに点数が上がっていき、直前は9割取れそうな気がしていた。

3学期が始まり、我が校の高3は自由登校なのだが、私は朝6時から夕方まで学校に居た。家にいると冬休みのように7時間以上寝ているだろうから。教室にはほかに誰も来なかったので、開放感に満ちていた。

学校でセンターパックを解くイベントが有ったので参加した。一人で家で解いても同じ、と思うかもしれないが、本番に近い雰囲気でやるほうが良いと思う。

直前期はひたすらに過去問や予想問題集を解くのみだった。一応、毎日全科目最低一年分をこなしていた。(地理と地学は2年)これで良かったのかどうか。

2014年3月26日水曜日

京大受験 ~高3秋から年末~

高3の2学期になると受験が近くなっているのを感じる。「一浪して明○大行ってろ!」などという笑えない冗談も言われなくなった。

2学期は長かったのに、あまり記憶がない。イベントとしては学年行事位しかなかったからだろう。

私は学年行事で省庁見学コースを企画した。防衛省見学、農水省食堂で食事、法務省、外務省見学というベタなものだった。しかし久しぶりのイベントということで私のみならず結構みな楽しんでいた気がする。

秋の大学別模試や最後の校内模試が帰ってくる頃になると、受験モードがもう一段階上がったように思う。そろそろ逆転が難しくなってくるのだ。

12月からは時間管理に苦しんだ。何故かエネルギーが湧いてこなくなり、最低7時間は寝ていた。二次試験については余裕があったといえば有ったが、センターが不得意であったにもかかわらず。


センター対策は、12月の頭からやり始め、半ばから比重を上げていき、正月からは完全にセンターに絞った。

京大受験 ~高3春から夏~

我が校は春に文化祭がある。この年は4月末であった。

例の歴史研究部的サークルの展示は毎年高3が手伝いに入るし、壁新聞の展示は私が企画しないといけない雰囲気であった。そのため、高3ながら全力で文化祭に参加することに。

そう決めると、今までの勉強中心の生活は揺らいで、4月の頭から例のサークルを手伝ったり、新聞のパンフレットを後輩に投げずに自作したりと、かつての生活に半分戻っていた。それでも早朝は必ず勉強していたし、夜も基本は勉強していたので、周りにおいて行かれることは無かったと思う。

文化祭3日前からは準備のため塾に行かなくなり、勉強時間は0に戻った。当日も3日間ずっと展示に居て、片づけも参加した。さらに文化祭で風邪をもらい、結局ゴールデンウィーク終了までほとんど勉強しなかった。

ゴールデンウィーク明けに校内模試が帰ってきたが、数学で知っている問題が出た上に国語が1位だったので文系3位であった。この辺りから、余裕を持って勉強できるようになる。

また駿台模試でも数学が大爆死しながら、国語と世界史で逃げ切りB判は確保した。英語は京大対策ばかりしていたせいで、和訳・英訳以外が伸びていなかった。

高3になって、学校の授業は内容も自分の受け方も変わったと思う。現代文は毎回演習と解説になったし、数学の予復習なんて中1以来初めてした。また、不要にしか思えない授業は切る人が増えた。一限の英語など定刻に9人しかいなかったこともある。 確かに、何も考えずに出席するのではなく、自分で有意義と思うコトをするのも有りだとは思う。例えば朝の都心をサイクリング、とか。誰がそんなことをしていたのかは聞いてはいけない。

高3の夏休みも特別なことはなく、ただただ持ち時間を勉強に費やすだけである。7時に起きて1時に寝ていた。やはり、一番つらいのはがり勉ではなく、部活などとの両立であろう。

夏には京大模試を2つ受けて、A判上位とB判上位だった。数学は共に爆死して偏差値40台であったが、他の科目は十分太刀打ちできると思った。

夏休みもオフを1日だけ作った。赤坂の迎賓館の内部参観に申し込んで当たったのである。詳細はここを参照。

京大受験 ~高2冬から春~

冬休みは1日だけオフとして白馬に行ったほかは、Z会で英数国の講習に行き、12時間くらい勉強していたと思う。京大に行く計画は体調が悪すぎて流れた。

高2の3学期になると、ようやくクラスも受験の雰囲気が出てくる。ただ、未だに芸術や化学など受験に関係ない科目をのんびり履修していたのだが。

センターを全科目解いて見ろ、とZ会で言われたので、全く勉強していない古文・漢文を大急ぎで詰め込んだ。Z会出版の「スピード攻略10日間」というもの。

そしてセンターを受けた。点数は曖昧な記憶による。
英語:筆記176、Lis40くらい
数学:61+64
国語:140
地理:75くらい
世界史:55くらい
地学:50くらい
合計 630点/900点

数学で10点、国語で8点マークミスした。数学が悲惨だが、合計点では京大合格者の高2時成績の平均を越えたので希望が見えた。

また、校内模試が有った。英語は若干伸びた。数学は安定の低得点。しかし国語がかつての輝きを取り戻し、順位が140位から50位まで上がり、我が校の現役東大合格ボーダーラインの順位に到達。

高2の3学期は、例の歴史研究部的サークルには滅多にいかなくなった。生徒会室には結構行っていたが、勉強中心の生活に移行していたと思う。

なお、上の校内模試のの日に6時登校したら成績が良かったことを契機に、それ以後も6時に学校について勉強することにした。夜11時を過ぎると勉強できなくなることに気付いていたのである。

この時期まで来ると、持っている時間を全て勉強に費やしていればよいので、楽になったと言えば楽になった。

この調子で春休みもひたすら勉強していく、

京大受験 ~高2・2学期まで~

・小学校まで
人より文字を覚えるのが早かったと言われる。幼稚園でも小学校でも本を読んでばかりだった気がする。だから身体能力が低いのか、それとも身体能力が低いから引き籠って本を読んだのか。。。

中学受験するにあたって、読書のおかげで国語・社会・理科で大きなアドバンテージを得ていた。そのため、算数を捨てたものの少なめの勉強量ながら、2月1日に受けた愛育病院のそばの中学に合格してしまった。

さらに2月2日に栄光学園を受けたが、算数が一か所以外白紙ながら合格してしまった。他教科が全て最高点であれば、合格最低点を辛うじて越えるので、そういうことなのだろう。この入試結果で調子に乗り、後で苦しむこととなる。

 ・中学校
4月の頭から歴史研究部的サークルに入った。この中学は親に受験させられたので(嫌だったわけではない)当然このサークルについても知らなかったが、小学生時代の趣味から当然の成り行きとして入部した。このサークルには高3まで出入りすることとなる。
ちなみに某運動部にも一時期居たのだが、やはり自分は文化部の住人だと感じて行かなくなった。

中1の時は友人の間に勉強する風潮が無く、成績が良い人が多くもなかったので、趣味と被る国語と社会しかできなかった。

中2になると成績の良い友人が増え、自分の成績がとんでもなく悪いと思えて勉強するようになった。多くの科目は少し勉強したらできるようになったのだが、数学はそうもいかず。赤点すれすれで進級した。数学だけはやっても上位に入れないのでやる気が起きなかった。

・高校
高1になると英語の教科書が変わり、本当にモチベーションが下がった。また文化祭が震災の影響で6月末に行なわれ、その後期末試験までは短期間しかなかった。そのため、この期末試験に初めて全教科一夜漬けで臨んだところ、まずまずの成績が取れてしまった。さらに、例のサークルの会計職や校内新聞の編集担当になったことで、勉強を捨ててそちらに注力し始めた。

高2になると明らかに成績が悪くなってきたが、それは見なかったことにして部活・生徒自治・旅行ばかりしていた。同輩、そして後輩からも「今日は塾なので活動に行きません」と連絡をうけながら。

高2の夏は一応Z会の夏期講習に行ったし、その期間はきちんと勉強していた。しかし、その他の期間は部活や旅行に費やした。高2の夏から本気で勉強する、と多くの人が言っていたが、何割が実行できたことやら。
ちなみに、この頃、京大文学部を受けようと思った。

2学期から週2回、英語と数学でZ会に行きだした。だが、例のサークル・新聞・生徒会・修学旅行委員を掛け持ちし勉強より優先していたので、勉強は塾の予復習のみ。結果、駿台全国模試は京大D判であった。(A~Dの4段階評価)だから、浪人覚悟で2学期は遊び切ろうと思った。

2学期末に新聞の最終号を作り、終業式直前に例のサークルで400ページの本を完成させたら、本当にやることが無くなった。エネルギーだけはあるのに、である。そして、それを受験勉強に向けることができたので、結果的には良いスタートを切れたと思う。

2014年2月26日水曜日

京大受験 ~2日目~

無事、はやく寝つけて4時半に起きた。6時に朝食なので、それまでは過去問の英文を読んでいた。もう2度も和訳したので覚えているようなものだが。

昨日と同じように朝食、そして出発。この日のタクシーは渋滞を回避しようと昨日と別ルートを通ったので、ずっと景色を見ていた。同乗者は勉強していたが、よく酔わないものだ。

この日は体育会の方が声援のみならずハイタッチをしていた。この独特の熱気は気分が良くなる。

一科目目 英語 09:00~11:00
まず滑らないだろうと思った科目。
し か し
英作文が異常に難しく感じた。直前までろくに勉強していなかったのもあるが、後で学校の教員と話したところ、例年以上だと言っていた。

とりあえず書き切るのに40分使った。和訳に自信が有ったのでここまでゆっくり解けたが、そうで無かったら焦ったと思う。

対して和訳の方は拍子抜けで、40分で全て終わった。このため40分余ったので、英作文の修正に費やした。暗記例文集からコピペできそうな部分も有ったので、内容は割とずれるものの、表現としては問題の少ないものを書けた気がする。

昼休みは世界史の最後の見直しに費やした。軽めの一問一答を使っていたので全部覚えてしまい、気が楽だった。

その後、吉田南に戻ると「折田先生像」に例のクジャクが止まっていて写真を撮られていたが、クジャクが合格お守りを蹴り落とした。

二科目目 世界史 13:30~15:00
これも得意教科。

科挙の歴史についの300字論述が出たが、定番ネタな上に過去問に似ていると思ったので、これは書ける。

もう一問はドイツの戦後史をまとめる300字論述だったが、最初450字になり取捨選択作業がメインだった。

知識問題は中国の大運河の名前以外は合っていると思う。19世紀後半にエジプトで大規模栽培されていた農産物は何か、これは予備校の講評だと難問とされたが、ゲーム「victoria」プレイヤーとして当然の正答。(答:綿花

これで全科目終了。これは受かったと思ったので、散歩して帰ることに。叡電で修学院まで行って、そこから出町柳まで歩いて帰ってきた。その後はさっさと新幹線で帰宅。

2014年2月25日火曜日

京大受験 ~1日目~

朝5時半に起きた。前日ろくに寝れなかったのでまずいことになっていると思いきや、快調である。

6時から朝食が始まった。普通の和食。親や友人との宿泊者が結構多かったが、全体的には静かな朝食。

7時半集合で、生協が手配したタクシーに知らない受験生3人と乗った。私は助手席。寺社の近くを何度も通るのでずっと景色を見ていたが、最後の方で同乗者がみな勉強していることに気付いた。酔いそう。

京大周辺はタクシーで大混雑。そのため近くまで行って途中で降りた。予備校関係者や体育会が大勢で応援に来ている。独特の熱気。どこぞの部から何となくもらったポケットティッシュに直筆メッセージが書かれていて地味に嬉しかった。

文学部の集合場所についた。待機する集団は実に文学部らしかった。男女問わずヲタ系が多い。同じ学校や予備校で集団を作っている人が多いが、こちらは一人で伊勢物語。

教員が出てきて「受験票を忘れた者は来なさい」とのこと。10人では済まない大人数が出てきた。忘れる人などいやしない、と思いきや。

整列が始まると「西に寄ってください」との指示。京都の人だから自然と方角を使いたがるのかもしれないが、受験生は混乱したよう。

ここで静寂を破り吉田寮生が出現。私は真っ先にパンフを貰いに行った。そして「問題が書いてあるかもしれないぞ~」「読むと受かるかも~」などとふざけだすと、結構の受験生が貰いに行っていた。面白かったが、受験の役には立たなかった。

さて、会場に入った。長机を1人または2人で使うので、誰でも通路に接する席ではあるし、空調も悪くは無かった。ただ、机の奥行きが学校や塾とは比べて非常に狭い。使える横の幅が大きいのであまり問題ではないが。

試験開始が近くなると、コートを含め全ての荷物を教室後ろの荷物置き場に移すように指示された。センターでは足元で良かったが、こちらは徹底。

一科目目 国語 09:00~11:00
センター同様に、待機時間はずっと作り笑いしていた。すると楽しくなってきた。

得意ではあるが、ここで大差をつけるつもりはないので普通に解く。古文はできたと思ったが、現代文は可もなく不可もなくというところ。本番で緊張することは無いと分かったことが一番の収穫。

国語終了後、昼休みとなった。ここで泣いている人は流石に居なかった。予約していた弁当を貰って、キャンパスを徘徊した後に時計台までいったら、すでに座れそうなところがほぼ埋まっていた。なんとか隙間を見つけて食べる。ここでも学校や予備校で固まっている人が多く、圧倒的アウェー。

その後も時計台付近に居たら、クジャクを連れている学生、お菓子を配るスパイダーマン、反原発の署名をする運動家などなど面白い人が沢山いた。

吉田南に戻ると、屋外で体育会の方が女子高生に声掛けして、出身高校などを聞いていた。相当の長話なのでナンパかと思ったら、その後は男含め一人でいる受験生何人にも声掛けしていたので、ただの優しい人だった模様。

集合時間が近いので会場に戻ったら、ほぼ全員がとっくに戻って勉強していた。

二科目目 数学 13:30~15:30
開始前に「みなさん妙に良い写真を受験票に使うので、たまに本人だと分からないことがあるんですよね」、と監督の教授。試験官はセンターに比べて和やかだったと思う。まあ、4月から自分が教える学生の選抜だから緊張する人が出て欲しくないのだろう。

私は極端な成績なので、例年通りの難易度であればこの科目で45点確保すれば受かりそうと言われていた。模試の数学は最後の京大実戦を除き悲惨だったが、直前には過去問や予想問題から考えるに60点は堅そうだったので気楽に受けられた。

第一問:
あれ?去年の問題と同じ発想で解けそう…あ、できた
(自信たっぷりで提出したが、予備校の解答と比べて(少なくとも見かけは)全然違ったので、得点開示待ち。)

第二問:
これは計算問題か…あれ、この定番の処理を度忘れ…いや、できるか
(一旦途中で放置した上にものすごく時間を食ったが完答)

第三問:
これは普通にやれば…計算間違えてるかもしれないけど時間ないな…
(時間の都合で見直ししないという賭けに出たが、合っていた)

第四問:
^^;
(一応書いたのだが、すごく怪しい内容だったと思うので期待していない)

第五問:
えっ
(瞬殺)

予想以上に出来たので、流石に受かったと思った。

試験後は京都御苑まで歩いて、その中を散歩していた。同じ考えの京大受験生は他にも何人かいたようだ。

その後も散歩していたせいで、ホテルに戻ったら夕食の時間となった。王将は昨日の件が有り行きたくないので、コンビニのおにぎりを食べた気がする。

ホテルで新聞を読んで、テレビで瓦職人の番組を見て、長く入浴したら、また大して時間が無くなった。昨日ほとんど寝れなかったことを考えて、世界史だけ見直して10時に寝た。英語は明日の朝だけで。

2014年2月24日月曜日

京大受験 ~前日~


 受験とはいえ久しぶりの遠出、行先は京都。

 出願に迷うこともなかったので、かなり早くにみどりの窓口で新幹線の指定をとった。7号車1番E席だった。ラッキーセブンの「一番イイ席」である。明らかに受験生なので選んでくれたんだろうか、とも思った。

 自宅から新幹線に乗るとなると品川が近いのだが、何となく東京から乗ろうと思った。無駄に早く着いたので駅舎を観察して遊んだ。

 9時発ののぞみで出発。車内で勉強しようと思い世界史の一問一答を持ってきたのだが、景色に気を取られて(ちなみに富士山は見えなかった)恐ろしい程に捗らなかった。 ほぼ全問覚えていたのだが。

10:41、名 古 屋 到 着 、 下 車 。

^^;

 京都に新幹線で行くなんて修学旅行でしかしたことがないので、 ここは普段通り在来線で行きたかった。慣れない行動での緊張は大敵。

 しかし東京~名古屋は嫌というほど乗ったので、今回はその区間だけを新幹線ワープ。

 名古屋駅の改札を出ると、凄く懐かしくなった。関東を除けば日本一使った駅だと思う。行先表示などを見てかつての旅行を思い出していたが、河合塾の広告が大量に目に入ってきた。リニューアルオープンらしい。この時期には勘弁してほしい。

 きしめんを食べて快速大垣行に乗る。毎度おなじみの車両。この辺りから完全に旅行気分。車内では伊勢物語を読んでいたが、これは古文対策ではなくただの趣味。

 大垣駅で20分くらい待ち時間があったので、人生で初めて大垣の改札を出る。MLながらで何度も使ったというのに、今までは全て素通り。駅前に松尾芭蕉の記念館への案内が有り、近かったら普通に行っただろうが遠かった。おばさんに署名を求められるがスルーして駅内へ。

 大垣から米原行に乗る。関ヶ原駅に停車した時、若者の集団が「徳川家康って関ヶ原で勝ったの?負けたの?」と大きい声で話していた…。

 米原からは、これまた毎度おなじみ新快速姫路行。いつもの事だが、オバサンたちの関西弁での騒ぎ声で西日本まで来たと実感。

 そして京都駅到着。烏丸口に出ると案の定バスが大行列。よくもまあ並ぼうと思うものだ。さっさと七条駅まで歩く。

 七条駅から京阪電車で出町柳駅へ。初めて来たが、予想より栄えていなかった。まあ、東京が栄え過ぎなのだろうが。ここからは人の波に乗って京大まで歩いた。百万遍から道を誤って北部構内に着いた。今考えると何故間違えたのか分からない。 ということで、京大本部構内への記念すべき第一歩は裏門からとなってしまった。

 実は、これまで京大に来たことが無かった。高2の2学期までは受験を大して考えていなかったし、高2の冬休みに行こうとしたらノロウイルス的症状で行けなかったのである。

 ここで時計台と御対面。実の所あまり好きで(ry

 本部構内を抜けて吉田南へ。ここが受験会場であった。新しそうな建物なので一安心。センターを受けた東大医学部の古い講堂は、意匠こそ好きだが実に寒かった。

 特にすることもないので正門の方に戻り、東山東一条に向かって歩く。途中で桜trickの立て看板に遭遇した。センター当日の朝も桜trickの話を知り合いにされた。縁があるのだろうか。

 さっさと帰っても仕方ないと思ったので、神宮丸太町まで歩き、京阪で清水五条まで行き、そこから京都駅前のホテルまで歩いた。高層ビルがないので開放感がある。

 夕食まで微妙に時間が有ったので伊勢物語を読んでいた気がする。とにかく、勉強がはかどることは無いと思った方が良いと思う。

 夕食は七条烏丸の王将に行ったが、3席隣の相当に酔っぱらった老人が、ろれつが回っていないものの私を罵っているらしく、甚だ不快だった。そのせいで急いで食べたので気持ち悪くなった。

 その後はホテルに戻ったが、勉強する気も起きず、買いこんだ中日新聞・岐阜新聞・京都新聞を読みとおし、更にNHKのニュースを見た。新聞でもテレビでもローカルニュースは面白かった。

 風呂にもかなり長く入った(ユニットバスで浴槽に水を張った)せいで、数学を見直す時間が短すぎることに気付く。朝食が6時から、出発が7時半、試験が9時からなので5時半に起きるので7時間半前の10時に寝るつもりが、明らかに無理なので11時に寝ることに。

 11時に寝ようとした。しかし寝れなかった。これは緊張というより、暑さと興奮、そしてチョコレートのせいだと思う。緊張を防ぐために意図的にテンションを上げていたのである。

 寝れない…と思いのた打ち回り、時計を見ると1時だった。その後も殆ど寝られた気はしないのだが、 夢を見たので少しは寝たのだと思う。

(続)