御所は宜秋門という門から入ったが、大行列。手荷物検査のせいかと思いきや、随分簡単な検査だった。本当に人が多かったのである。例えたら、「ルーブル美術館展」などをやっている時の国立西洋美術館。自由に観覧していくというより、流れに乗っていく感じ。
10:15に着いて流れに乗って観覧していると、10:30を過ぎた。11時から蹴鞠の披露だが、11時に行っても見られる気がしなかったので、10:35から陣取っておいた。一応最前列を確保。
広場に臨時の蹴鞠場が砂を盛って作られていた。御所には正式な蹴鞠場があるのだが、今日はギャラリーが多いので臨時に略式のものを作ったとのこと。(本当は蹴りあげる高さの基準としてフィールドの四隅に植える植物の種類が決まっているなど色々あるのだが…詳しくはwikipedia辺りへ。)
定刻。 松っぽい植物の枝に鞠を挟んで運んでくる。そこら辺に御幣でも立ってそうな雰囲気。
貴族のゲームなので身分差がゲームに絡んでくる。今回は烏帽子の紐がただ一人紫色の男性が「最も高貴」という設定らしい。
ちなみに女性も参加している。ただ烏帽子は被らない。
さて、競技開始。鞠は鹿皮の手作り品なので、それぞれとび具合が異なる。だから、競技が始まると、まずは各人が3~4回蹴り上げて感触を確かめる。
今回は8人で行っていた。1ゲーム15分~20分ほど。wikipediaによると「落とした人が負け」「続いた回数を競う」など勝負用のルールも一応あるようだが、少なくとも今回はゆるゆる蹴り続けていくだけ。
そういうと、まったりした遊びに聞こえる。しかし、そうでもなかった。砂埃が上がるし、転びかける、ぶつかりかける…などなど予想より激しい。また、蹴るたびに「アリ」「ヤァー」など掛け声をあげるので静かでもない。後半になると水干が随分汚れていた。
さて、競技であるが、これが意外と続かない。日本一蹴鞠が上手い方々なのだろうが、革靴でいびつな鞠を蹴り上げるので難易度は高いよう。後半になるにつれて続くようになってはいたが。
そんなことで15分くらい経ち、蹴り上げられた鞠を最も高貴な人が手で受け取りゲーム終了。もう1ゲームが別の方々によって行われたが、同じ内容なので説明省略。
こうして蹴鞠観覧は終了。華やかな衣装、独特の掛け声、意外と激しい動き。伝統芸能というと見てて眠くなるようなもの、というイメージが無いこともないが、これは全くそんなことはなく熱中して見られるのではないか。京都に限らず東京でもやっていることがあるので、一度見てみることをオススメする。
(御所の建築?あぁ混み過ぎてろくに見れなかったのでカットします…。)
午後は河原左大臣源融の暮らした河原院跡を訪ねる。9世紀に暮らした嵯峨天皇の皇子。臣籍降下して嵯峨源氏になっている。ちなみに酒呑童子を退治した渡辺綱は融の子孫。
何故に融が有名かというと、まずは光源氏のモデルの1人と言われていることがある。河原院が光源氏の六条院のモデルとも言われる。
また「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに」が百人一首に入集していることもあるだろう。
ただ私は源氏通読も百人一首暗誦もしていないので、伊勢物語で出会った。上の歌は伊勢物語初段で「昔男」によって詠まれるし、81段には明らかに融のことを指す「左の大臣」が登場する。
伊勢物語81段は融の河原院で宴会が有り、「昔男」が河原院を称賛する次の歌を詠むものである。
「しほがまに いつかきにけむ あさなぎに つりするふねは ここによらなむ」
河原院は、歌枕・塩竈の風景を模して作られ、融は運び込んだ海水で製塩もしたと言われる。 そのため、昔男は上の歌を詠んだのである。ちなみに「塩竈」は製塩用かまどのことだが、現・塩竈市付近のそれが有名になったため、地名となった模様。
まずは渉成園へ。ここは17世紀に徳川家光の支援で東本願寺が作った庭園だが、融の河原院を真似て作ったと言われる。そのため、融の供養塔といわれる石塔(これは誤りらしい)、 外見が似ることから「塩竈」と呼ばれる石を組んだ泉、融が塩を焼いたといわれる釜の手水鉢などがあった。ただ、いずれについても現地に説明板は無いので注意。
次は本覚寺へ。ここは本物の河原院の跡地の一角らしい。中に入れなかったが、塩釜神社が境内にあり、融の像が安置されているとか。
高瀬川まで少し歩くと、「河原院跡」の石碑発見。 脇の木は河原院の木の生き残り、と言われてはいる。
河原町通を若干下ると「本塩釜町」の表示発見。そう、この一帯の住所は「本塩釜町」。河原院の庭園は後に荒廃し、「やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」と恵慶法師に詠まれてしまっているが、その名残を地名として今に残しているのだった。
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