高3の夏休みに1日で書いた原稿をコピペ。まともに調査していないのでクオリティはお察しください~。
私は(自称)建築趣味者なので、そこそこ見学にも行ったし文献を読んだとも思う。その結果としてこの考えに至った。「我らの校舎にもう少し目を向けるべきなのではないか?」私としては、麻布学園教室棟は類まれな価値を持っていると思っている。しかし、生徒の間で話題にもならず、学校側もwebや説明会でアピールすることがない。100年史の建築分野も浅い調査と言わざるを得ない。このまま無関心が続き、老朽化による即時全面解体に至るのは非常にもったいないのではないか。深い興味は持たなくとも、その歴史を知ることは、麻布生としての誇りや卒業してからの母校愛などの獲得において大きな要素になるのではないか。本稿では、教室棟に特徴的な事物を幾らか紹介していく。ただ、残念ながら私には残された時間が少なかった。本稿では大まかにしか触れられないので、後代の人間が本格的に調査し発表することを期待している。
基本データ・鳥瞰図
本稿では、教員室のある部分を除くコの字の教室棟について扱う。他の部分に関しては、少なくとも現在においては、歴史的な思い入れもないし、見るべき意匠もあるように思えなかった。
コの字の一辺は約60m。時計台(現在は校章が貼られているが)を頂点とする二辺は、1932年築の第一期校舎であり、残りの一辺が1937年築の第二期校舎である。全体として地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート構造である。
建築当時の歴史的背景
以前の校舎は木造であり、関東大震災をなんとか耐えている。しかし、老朽化や生徒数増加により改築されることとなった。昭和初頭というと関東大震災復興小学校が都内に一斉に建てられ終わった辺りの時代であり、本校舎もその影響を強く受けていると思われる(後述)。校舎建築の基金は1917年から作られており、震災などで中々集まらなかったが、江原素六の人望により三井や三菱から多額の寄付があったようだ。そこで1930年から日本が恐慌に陥った。学園はそれによる資材価格下落を利用し、その基金と在学生からの寄付などで建築に踏み切った。このようにして、第一期校舎は完成した。
その後、さらに生徒が増加した為、1937年に第二期校舎が完成した。といっても、この増築は当初から計画されていたらしい。現在では狭いと言われる麻布学園だが、当時としては都内で数少ない施設とされていたようだ。(実際、広いと言われている学校は都心にないことが多い。狭さを嫌って郊外へ転出した私学も多い。)
こうして現在のコの字部分は完成した。その後については割愛する。
関東大震災復興小学校
教室棟の構造は、関東大震災で全壊し(半分以上が全壊した)その後改築された東京市立小学校と多くの共通点を持つ、というより本稿で挙げる特徴は復興小学校の特徴ばかりなので、これを抜きにしては語れない。
震災後、東京府は「復旧」ではなく「復興」を宣言した。これは従来の町を再構築するのではなく、新時代にふさわしい街を作っていくというものだ。学校建築の改革もこの枠組み内の出来事である。東京市が主導して行った小学校建築の際には階数から窓の高さまで様々な規格が設けられ(規格の全文はインターネットと近所の図書館では見つからなかった。国会図書館にでも行って欲しい。)、それに大体沿って工事が行われた。細かい数字は置いておいて、コンセプトは以下のような物だ。
・防災
木造校舎の危険性は震災以前から言われていて、東京での新築は禁じられていた。復興小学校は全て、国内の小学校としては神戸などの一部の小学校にしか使われていなかった鉄筋コンクリートを採用した。さらに、耐震性を重視した結果、太い柱を多く入れることとなった。
また、教室から3分以内に屋外への避難ができるに設計され、行き止まりを作らないなど、階段・廊下の幅や配置に配慮が見られる。
・教育環境
戦前の教育というと軍国教育や軍事教練ばかりしていたように言われるが、その多くは戦時体制の国民学校の話である。震災後においては、教育は児童の心理に配慮すべきという主張も強くされていたのだ。その結果、丸みを帯びたデザインや壁の塗装といったことから、水洗トイレ、ボイラー、さらにはシャワー室などの贅沢な設備が整えられた。(水洗トイレについては公衆衛生の推進という意味もあるが)
また、採光が重視された。どの学校でも窓の面積が広くなり、換気口の作られたものもある。また、コの字型・ロの字型の校舎では廊下が外側に作られた。普通に考えれば、教室を外にした方が広い面積をとれるはずである。しかし、ここでも採光を優先し、教室を内側に入れたのだ。
そして、天井は高い物となった。戦後の一般的な学校建築は高さ3m程度だが、復興小学校は3.5mと規格化されている、工費は上がるが、環境は改善される。
・敷地活用
地方の古い小学校であると横長が多い。しかし、東京でそんな用地は取れなかったため、コの字型やロの字型が採用された。その内には校庭を入れたのである。(麻布の狭い中庭を想像しないで欲しい。「校庭」である。)
・復興小学校の今
120校近く建設されたが、現存するのは定義によるが10校程度である。老朽化や近隣のマンション開発による教室不足により特に近年解体が進んでいて、現在も九段小学校が解体の方向に動いている。
教室棟の特徴
ようやく本題である。前章を見ても、教室棟が当てはまる復興小学校の特徴が多々あると分かったであろう。ここでは、それらを中心に具体的な構造や意匠について紹介する。
なお、「復興小学校と類似するというが単に当時の一般的な建築ではないのか」という指摘をされそうなので、返答しておく。復興小学校は東京を新時代の都市とするためになされた革新的改革の一部であり、震災直前の東京の小学校とも、同時代の農村の小学校とも一線を画するモダニズム建築である。そのため、復興小学校との類似というのは特異性として語れるだろう。
・外面
時計台部分を除けば、シンプルな構造である。塗装も白一色である。これは手抜きではなく、後期の復興小学校にも多くみられるモダニズムの流れを受けた物だろう。窓枠がアルミサッシ化されているため、現在では創建当時より地味に見えていると思う。
だが、時計台部分は内部に中央階段を配置した為に膨らみ、類を見ない独特の構造となっている。また、窓面積率が高いのも特徴である。
また、理由は不明だが、第一期校舎と第二期校舎では中庭側の柱の太さが異なる。教室間に位置する柱のみ、他の2倍になっているのだ。
・内部基本構造
最大の特徴は中央階段である。これは、その広い幅と踊り場、そしてグランドへ抜ける位置という事からして避難用と考えられる。ただ、復興小学校の規格では、階段は更に広いものとされている。
・天井
廊下で3.35m、中央階段のみ3.6mであった。3.5mという復興小学校の規格と同様、高くとられている。現在では貼り天井が多いが、復興小学校も教室棟も素のままである。
・廊下
幅については、復興小学校の規格の2.7mに対して2.35mしか取られていなかった。用地の問題だろうか。ただ、復興小学校の場合は廊下にロッカーなどが置かれることが想定されていたようなので、実際は同程度だったのかもしれない。
また、理由は不明だが、第二期校舎においては柱の廊下に飛び出る幅が大きい。
・廊下外側の窓
理由は不明だが、第二期校舎においては高さが低く、中庭側と同じ75cmである。対して、第一期校舎では中庭側より高く100cmである
・柱
麻布は柱が多い、というくらいなら校内で常識になっている。教室内の柱の幅は54cm、柱の間隔は255cmであった。復興小学校の柱の間隔である280cmというのが柱の幅を含むのか分からないし、教室内とその他の場所で同じ幅だったのかもわからないが、ほぼ同じではある。当然ながら、同時代の一般建築や現在の建築ではここまで多くない。
・教室
中庭側の窓の高さは75cm。また、窓が天井の柱の高さまでいっぱいに取られている。両方、復興小学校と共通することだ。
また、第一期校舎においては、廊下との仕切りとなる壁の中央上部に換気口が付いている。これは復興小学校にも見られたもので、感染症予防だったとされる。
・細部の意匠
柱と天井の接合部に、モールディングと呼ばれる漆喰の細工がなされている。この種の細工は古い洋館などでは見られるが、何の実用的価値もないため、現在の一般的な建築では廃れている。
また、窓枠は階段状(?)のものが多く使われている。これは西洋建築の一般的な手法だと聞いたことがある。一部の教室では何の細工もない木材であるが、それらは元々大教室であったものを潰して普通教室に改装した為だと思われる。
まとめ
麻布学園普通教室棟は、関東大震災後という時代背景に基づいた、防災思想と新教育思想の読み取れる貴重な物件であるとともに、戦後の建築では一般的でない構造や意匠が見られる。これは麻布学園の初期といって良い時代から現在までを記録している建築であるので、可能な限り現状維持とあってほしいが、数十年後には改築が避けられないだろう。その時に、時計台部分の外観のみ保存または復元され、その他の重要な特徴が見向きもされず消え、「コスパ」のみを重視した味気ない姿となるのは惜しいことである。現在の校舎に込められた思想を守りとおさずとも、せめて、この校舎には深い思想が込められていることを理解し、建築後に評価される新時代の思想を込めた改築としてほしい。
参考文献
関東大震災と「復興小学校」: 学校建築にみる新教育思想
明石小学校の建築
港区の学校建築―震災と復興
麻布学園100年史
各種webサイト(メモするの忘れた)
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