2014年6月13日金曜日

上賀茂神社・社家町


上賀茂神社
自動車お祓い所
大学の一般教養のレポートで、建造物・構築物等の保存と活用を行っている地域を見学してレポートを書く必要があった。

近場の重伝建に行こうと思ったのだが、美山市北の茅葺集落はもちろん、嵯峨鳥居本も遠いし、産寧坂や祇園新橋は混んでいるので上賀茂へ。







昼に大学を出て、自転車で北上。下鴨西通を延々と北上して上賀茂神社に到着。境内が広く、市バスの駐車場やら定期利用者の駐輪場やらが存在。それでもまだ広い。流石郊外。

自動車お祓い所があった。境内の中に突然現れる。柵や屋根が有るのかと思ったが。


 
 また、神道の古式を伝える遺跡として、かつて神職と勅使が対面する儀式を行っていた岩場があった。これも現在は境内の一角にあり、特に構造物に囲まれてはいない。








境内にある賀茂山口神社の入口に神聖な扱いを受けている岩を発見。陰と陽の融合した姿らしい。


二葉姫稲荷神社。景色が良い、と看板にあったので坂を上がっていく。
景色。京都タワーまでは視認できた。それより先に山も見えたが、名前が分からない。










神社脇から東西に延びる社家町。神職の屋敷が立ち並ぶ。道路と家の間に明神川を挟み、川の水を庭で利用。

2014年5月15日木曜日

今日の授業は葵祭に行きます

葵祭に行ってきた。授業で。

木曜2限はスポーツ実習。私はサッカーなどを選ぶはずもなく、当然のウォーキング選択者。

京都では大学周辺のウォーキングとなると当然史跡めぐりになる。前回は下鴨神社であった。受講者のほぼ全員が文学部なので、神道や日本史について語りだす。

そして今回は葵祭。行列が河原町通丸太町~今出川を通過する時刻と授業時間が見事に被った。ということで、大学から河原町丸太町まで歩き、そこで現地解散し各自見学。

といっても、下調べしなかったし、人ごみが酷く、しっかりは見ていない。感想としては、牛車がうるさいこと。牛が暴れるのではなく、木製の車輪がかなりきしむ。牛車で混雑した往時の公家屋敷は「雅」とはかけ離れた雰囲気だったかもしれない。

行列を追い越しつつ河原町通を北上し、下鴨神社に行った。ここで行列を先頭から見送った。そして境内に行列に有ったので、とりあえず並んでみた。

しかし中々進まない。モラルの欠けた人々は立ち入り禁止の場所に侵入したり警官の指示を無視したり、ひどい有様。「そこに入らないでください」よりも「世間様の見る前でそんなことをして恥ずかしくないんですか」「お孫さんが今のあなたをみたらどう思うでしょうね」とか注意した方が効果ある気がする。

結局、最奥部までは当分入れないと分かったので途中で撤退。まずまずの収穫。


引っ越して未だ1月と少しだが、「京都在住のゆとり」は出てきたと思う。どうせまた来れるから今日の見学に本気にならなくてもね、という。


そういえば、フィットネスの受講者と河原町通で有ったので、あちらも葵祭に来た模様。葵祭を理由に休講になった授業も有るらしい。流石京都。

2014年5月10日土曜日

京都市立小学校建築探訪 旧開智小学校編

東京の「復興小学校」のデザインや歴史的背景が好きなので、今度は同時代の京都市立小学校の建築を見に行った。

※復興小学校:関東大震災後で東京の小学校の多くが校舎を失った後に、基本的には一定の規格に沿って作られた小学校。

まずは旧開智小学校。1935年の作。現在は学校歴史博物館に転用されている。展示内容は面白いのだが、あまり関係ないので省略。
正門前の道路。普通車のすれ違いは不可能なのでは。正門前がここまで狭いと混雑など色々大変そうだが、京都市中心部なので仕方ない。
正門。同時代の東京の小学校の正門は石柱の間に鉄製の門が付くのが多かった気がする(Ex.泰明小学校フランス門)が、これは和風。
校舎。車寄せと、その上のコンクリート打ちっぱなし部分は近年の設置。

教室の窓の下の黒い点は換気口だと思う。東京のものでは、明石小学校の写真で同じものが確認できた。

ちなみに、同時代の旧制中学校舎である麻布学園教室棟には、外見が似るが穴が貫通していないため機能性は無いものがある。


3階部分から一部分だけ上に飛び出している。ここが階段。ありがちな構造だろうが、東京の常盤小学校を思い出した。

いざ内部へ。
床は板張り。雰囲気は東京の復興小学校にまあ似ていると言って良いのでは。

しかし、見過ごせない大きな違いがある。教室内の柱の本数である。東京では教室の中間に2本の柱を入れる規格を作成してそれに基づいて建てたが、ここは1本である。東京が2本入れる理由は関東大震災を教訓とした耐震性への配慮であろう。
また、教室と廊下の間の窓の高さも違う。東京では外から覗けない高さまで壁を作り、その上に窓を設置した。しかし、ここでは窓が低く小学生でも覗き込める。この高さの意味については当時の教育思想が関係していたはずだが、本が手元にないので省略。
(「関東大震災と「復興小学校」学校建築にみる新教育思想」に書いてあったと思う。)




  階段。茶色の部分は人造石研ぎ出しというありがちな素材。










 壁と天井の接合部に「繰型」というものがある。ただのデザインだが、細部に一芸を光らせるのは良いこと。現代の学校には無い気がする。

全体の感想としては、カクカクした印象を受けたので、あまり好みではなかった。丸柱とかアーチ窓が好き。
(「カクカク」というのは東京の小学校規格検討の際に批判されたことの1つだったと思う)

ただ、部分的には良いものがあったし、東京と京都の比較が出来たので有意義だった。

2014年5月7日水曜日

今宮祭2014

5月5日に今宮祭に行ってきた。大学の課題で京都近辺の祭りの見学レポートを書かなければならないので。

神社の歴史はココを見ればわかるので割愛。

10時に神輿を拝殿から降ろすので、9時15分ごろに神社入り。

9時25分ごろに地元の男性達が集まってくる。 老いも若きも。しかし女性は子供を除いていない。

9時55分ごろに集合がかかり、参加者たちが本殿で礼拝。 この時間はあいにくの本降りの雨。神輿の側面を透明ビニールで覆ってから舞台から降ろした。降ろすときの掛け声が「ワッショイ」ではなく「エイサ」「ホイショー」「ヨーサー」などだった。「ワッショイ」の掛け声も後に氏子地域内を引き回すときには上がっていたが。

神輿を下すと、担ぎ手を増やすために更に長い棒に神輿を接続する。舞台に上げられているときの神輿は、担ぐための棒がかなり短い。

ちなみに、「担ぎ手」と書いたが、ここの神輿は担いで巡幸するのではない。基本的には台車に載せて綱で引っ張り、主要な交差点数か所で台車から降ろして少し動き回る。人が足りないらしい。まあ、トラックで巡幸する神社もかつてあったそうなので、人が居ないことはないのだろうが。


この接続に結構時間がかかり、11時に神輿が神社を出た。本降りの雨なので、鉾など神輿以外の巡幸は省略。残念。
私が着いて行った大宮神輿は神社から北東の地域を一周した。沿道にあまり人は居なかったと思う。






この巡幸は午後に比べれば短いもので、12時には神社へ帰着した。そこで担ぎ手の昼食休憩も取られた模様。

待機している神輿を女性観光客がベタベタ触っていた。すると地元の女性から「女の子は触らんといて」と注意。ここは女神輿を導入していないので、神輿は男の仕事。

12時40分に再度集合がかかり、今度は大規模な巡幸にかかる。 今宮通を西進して千本通を南下、北大路で東に入り旧大宮通まで。ここが大徳寺前。京都新聞の写真はここで撮られていた。

さらに旧大宮を南下し、低層木造家屋密集地域に入る。所謂西陣、織物業者が多い。しかし休日な上に神輿で騒がしいので織機の音は聞こえず。
普通車がすれ違えるかどうか怪しいような道を大きな神輿が進んでいく。標識にぶつかりそうになることもあり、難しそうな巡幸である。

ただ、こういう地域になると一家・親族・隣近所で集まって宴会をしながら神輿を待ち、神輿がやって来ると外に出てくる家も増えたように思う。

こうして千本寺之内に出た。寺之内通を西進し、 また小路を進んでいく。ここも織物業者が多い。神輿の休憩が長かったので静かな路地をさまよっていると、織物業の看板も出さない小さな日本家屋から織機の音が聞こえてくる。これが西陣織の制作現場なのだなぁ~と感動していた。教科書の一問一答的記憶が、こうして身体の記憶となっていく。

その後、千本通へ出て北上する。この辺りでは鉾を門前に飾る家がいくつかあった。町として鉾を所有している地域である。










千本通を東に入り、小路を抜け、大宮通を北大路の近くまで北上すると御旅所に到着する。御旅所とは仮設の物かと思いきや、日常的に神社の管理地であり建物もたっている。ここには雨の中屋台が立ち並び、賑わっている。無事神輿が台に乗せられたのを見届けて、さっさと帰った。文章だと軽い散歩に見えるかもしれないが、午前中1時間・午後4時間、普通の鞄とカメラバッグを担いで歩き回っているのだ。久しぶりに疲れた。


2014年4月19日土曜日

ミッドナイト念仏

18日の夜、お好み焼き屋に居たら友人から「知恩院でミッドナイト念仏をやるぞ」というメールが来た。これは明らかに「行って来い」という振りだろう。乗らない訳にはいかないので行ってきた。

ミッドナイト念仏とは法然上人の忌日法要に合わせて国宝・三門の楼上で一晩中念仏を唱える行事。名前からわかるとおり、若者などの参加を歓迎している模様。

これは午後8時から午前7時まで実施されているので、相当に気合の入った方は11時間参加していればよいが、私は無理なので途中参加かつ途中抜け。それでも良い、というかほとんどの人はそうする。

2時過ぎに北白川の家を出発して東大路を南下していく。本当に静か。歩行者は当然居ないが、自動車も殆ど居なかった。意外。

2時半に知恩院に着いた。電車・バスが無い時間なので、タクシーの出入りがちょくちょく有る。参加者は近場住民に限らない模様。

写真の三門まで歩いていくと、木魚を叩く音が外にまで響く。かつてない雰囲気。そして意外や意外、若者中心に50人以上の行列。歴史好き・熱心な信者という雰囲気ではなく、いわゆるチャラい系が多い。いや、念仏を唱えに来るのだから普通のチャラ系とは何か違う気もする。さらに、行列が中々進まないので、一部の集団が「空くまで酒を飲みに行こう」といって消えていった。この様な参加者層である。まあ、仏教に触れることは触れているのだから良い面もあるだろうが。

並びに並び、1時間。3時半になって入場した。楼上に上がる階段の下でお坊さんから「念仏なう、と書き込みたい気持ちはわかりますが、楼上ではご遠慮ください。ただ終了後は歓迎です。」との呼び掛け。

楼上からの夜景は綺麗だった。 京都は超高層ビルが無いが、山が近いので高い場所に行きにくくはない。

楼上の部屋に入った。極彩色だが薄暗く、派手さは感じない。正面に仏像がおり目が合う。宗教的空間。

激しい木魚の音。BPMは多分200。「ミッドナイト念仏」なのに、参加者のほとんどは何も唱えていないか小声である。そこは残念。

正座して、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏~」と唱えていく。これを延々と続けていく。木魚の音に包まれた2時間半。

そして、脇の戸口から光が見えた。夜が明けたので6時に帰った。悟ったりトランス状態になったりはしなかったが、木魚のポクポク鳴り響く独特の空間に惹かれるものはある。京都市民であれば来年以降、短時間でも行ってみればよいのではないか。


=その後=
この様に徹夜した後、TOEFLを受けに大学へ。コンディション最悪かつ強制受験制度に賛成できないので鉛筆転がして寝る。

2014年4月13日日曜日

蹴鞠観覧&河原左大臣を訪ねて

京都御所の一般公開は春と秋にある。今日は春の一般公開最終日だったので混雑は予想できたが、蹴鞠の披露が今日だけだったので行ってきた。

御所は宜秋門という門から入ったが、大行列。手荷物検査のせいかと思いきや、随分簡単な検査だった。本当に人が多かったのである。例えたら、「ルーブル美術館展」などをやっている時の国立西洋美術館。自由に観覧していくというより、流れに乗っていく感じ。

10:15に着いて流れに乗って観覧していると、10:30を過ぎた。11時から蹴鞠の披露だが、11時に行っても見られる気がしなかったので、10:35から陣取っておいた。一応最前列を確保。


広場に臨時の蹴鞠場が砂を盛って作られていた。御所には正式な蹴鞠場があるのだが、今日はギャラリーが多いので臨時に略式のものを作ったとのこと。(本当は蹴りあげる高さの基準としてフィールドの四隅に植える植物の種類が決まっているなど色々あるのだが…詳しくはwikipedia辺りへ。)





定刻。 松っぽい植物の枝に鞠を挟んで運んでくる。そこら辺に御幣でも立ってそうな雰囲気。

貴族のゲームなので身分差がゲームに絡んでくる。今回は烏帽子の紐がただ一人紫色の男性が「最も高貴」という設定らしい。
ちなみに女性も参加している。ただ烏帽子は被らない。












さて、競技開始。鞠は鹿皮の手作り品なので、それぞれとび具合が異なる。だから、競技が始まると、まずは各人が3~4回蹴り上げて感触を確かめる。 




 今回は8人で行っていた。1ゲーム15分~20分ほど。wikipediaによると「落とした人が負け」「続いた回数を競う」など勝負用のルールも一応あるようだが、少なくとも今回はゆるゆる蹴り続けていくだけ。

そういうと、まったりした遊びに聞こえる。しかし、そうでもなかった。砂埃が上がるし、転びかける、ぶつかりかける…などなど予想より激しい。また、蹴るたびに「アリ」「ヤァー」など掛け声をあげるので静かでもない。後半になると水干が随分汚れていた。

さて、競技であるが、これが意外と続かない。日本一蹴鞠が上手い方々なのだろうが、革靴でいびつな鞠を蹴り上げるので難易度は高いよう。後半になるにつれて続くようになってはいたが。

そんなことで15分くらい経ち、蹴り上げられた鞠を最も高貴な人が手で受け取りゲーム終了。もう1ゲームが別の方々によって行われたが、同じ内容なので説明省略。

こうして蹴鞠観覧は終了。華やかな衣装、独特の掛け声、意外と激しい動き。伝統芸能というと見てて眠くなるようなもの、というイメージが無いこともないが、これは全くそんなことはなく熱中して見られるのではないか。京都に限らず東京でもやっていることがあるので、一度見てみることをオススメする。

(御所の建築?あぁ混み過ぎてろくに見れなかったのでカットします…。)


午後は河原左大臣源融の暮らした河原院跡を訪ねる。9世紀に暮らした嵯峨天皇の皇子。臣籍降下して嵯峨源氏になっている。ちなみに酒呑童子を退治した渡辺綱は融の子孫。

何故に融が有名かというと、まずは光源氏のモデルの1人と言われていることがある。河原院が光源氏の六条院のモデルとも言われる。

また「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに」が百人一首に入集していることもあるだろう。

ただ私は源氏通読も百人一首暗もしていないので、伊勢物語で出会った。上の歌は伊勢物語初段で「昔男」によって詠まれるし、81段には明らかに融のことを指す「左の大臣」が登場する。

伊勢物語81段は融の河原院で宴会が有り、「昔男」が河原院を称賛する次の歌を詠むものである。

「しほがまに いつかきにけむ あさなぎに つりするふねは ここによらなむ」

河原院は、歌枕・塩竈の風景を模して作られ、融は運び込んだ海水で製塩もしたと言われる。 そのため、昔男は上の歌を詠んだのである。ちなみに「塩竈」は製塩用かまどのことだが、現・塩竈市付近のそれが有名になったため、地名となった模様。

まずは渉成園へ。ここは17世紀に徳川家光の支援で東本願寺が作った庭園だが、融の河原院を真似て作ったと言われる。そのため、融の供養塔といわれる石塔(これは誤りらしい)、 外見が似ることから「塩竈」と呼ばれる石を組んだ泉、融が塩を焼いたといわれる釜の手水鉢などがあった。ただ、いずれについても現地に説明板は無いので注意。














次は本覚寺へ。ここは本物の河原院の跡地の一角らしい。中に入れなかったが、塩釜神社が境内にあり、融の像が安置されているとか。

高瀬川まで少し歩くと、「河原院跡」の石碑発見。 脇の木は河原院の木の生き残り、と言われてはいる。
















河原町通を若干下ると「本塩釜町」の表示発見。そう、この一帯の住所は「本塩釜町」。河原院の庭園は後に荒廃し、「やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」と恵慶法師に詠まれてしまっているが、その名残を地名として今に残しているのだった。
 
やはり政治に名を残した人物より文化的逸話を残した人の方が魅力的ですね。ちなみに融と対になるのは藤原基経。史上初の関白。

2014年3月27日木曜日

麻布学園普通教室棟に関する一考察

 高3の夏休みに1日で書いた原稿をコピペ。まともに調査していないのでクオリティはお察しください~。

 私は(自称)建築趣味者なので、そこそこ見学にも行ったし文献を読んだとも思う。その結果としてこの考えに至った。「我らの校舎にもう少し目を向けるべきなのではないか?」私としては、麻布学園教室棟は類まれな価値を持っていると思っている。しかし、生徒の間で話題にもならず、学校側もwebや説明会でアピールすることがない。100年史の建築分野も浅い調査と言わざるを得ない。このまま無関心が続き、老朽化による即時全面解体に至るのは非常にもったいないのではないか。深い興味は持たなくとも、その歴史を知ることは、麻布生としての誇りや卒業してからの母校愛などの獲得において大きな要素になるのではないか。本稿では、教室棟に特徴的な事物を幾らか紹介していく。ただ、残念ながら私には残された時間が少なかった。本稿では大まかにしか触れられないので、後代の人間が本格的に調査し発表することを期待している。

基本データ・鳥瞰図
 本稿では、教員室のある部分を除くコの字の教室棟について扱う。他の部分に関しては、少なくとも現在においては、歴史的な思い入れもないし、見るべき意匠もあるように思えなかった。
コの字の一辺は約60m。時計台(現在は校章が貼られているが)を頂点とする二辺は、1932年築の第一期校舎であり、残りの一辺が1937年築の第二期校舎である。全体として地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート構造である。

建築当時の歴史的背景
 以前の校舎は木造であり、関東大震災をなんとか耐えている。しかし、老朽化や生徒数増加により改築されることとなった。昭和初頭というと関東大震災復興小学校が都内に一斉に建てられ終わった辺りの時代であり、本校舎もその影響を強く受けていると思われる(後述)。校舎建築の基金は1917年から作られており、震災などで中々集まらなかったが、江原素六の人望により三井や三菱から多額の寄付があったようだ。そこで1930年から日本が恐慌に陥った。学園はそれによる資材価格下落を利用し、その基金と在学生からの寄付などで建築に踏み切った。このようにして、第一期校舎は完成した。
 その後、さらに生徒が増加した為、1937年に第二期校舎が完成した。といっても、この増築は当初から計画されていたらしい。現在では狭いと言われる麻布学園だが、当時としては都内で数少ない施設とされていたようだ。(実際、広いと言われている学校は都心にないことが多い。狭さを嫌って郊外へ転出した私学も多い。)
こうして現在のコの字部分は完成した。その後については割愛する。

関東大震災復興小学校
 教室棟の構造は、関東大震災で全壊し(半分以上が全壊した)その後改築された東京市立小学校と多くの共通点を持つ、というより本稿で挙げる特徴は復興小学校の特徴ばかりなので、これを抜きにしては語れない。
 震災後、東京府は「復旧」ではなく「復興」を宣言した。これは従来の町を再構築するのではなく、新時代にふさわしい街を作っていくというものだ。学校建築の改革もこの枠組み内の出来事である。東京市が主導して行った小学校建築の際には階数から窓の高さまで様々な規格が設けられ(規格の全文はインターネットと近所の図書館では見つからなかった。国会図書館にでも行って欲しい。)、それに大体沿って工事が行われた。細かい数字は置いておいて、コンセプトは以下のような物だ。

・防災
 木造校舎の危険性は震災以前から言われていて、東京での新築は禁じられていた。復興小学校は全て、国内の小学校としては神戸などの一部の小学校にしか使われていなかった鉄筋コンクリートを採用した。さらに、耐震性を重視した結果、太い柱を多く入れることとなった。
また、教室から3分以内に屋外への避難ができるに設計され、行き止まりを作らないなど、階段・廊下の幅や配置に配慮が見られる。

・教育環境
 戦前の教育というと軍国教育や軍事教練ばかりしていたように言われるが、その多くは戦時体制の国民学校の話である。震災後においては、教育は児童の心理に配慮すべきという主張も強くされていたのだ。その結果、丸みを帯びたデザインや壁の塗装といったことから、水洗トイレ、ボイラー、さらにはシャワー室などの贅沢な設備が整えられた。(水洗トイレについては公衆衛生の推進という意味もあるが)
 また、採光が重視された。どの学校でも窓の面積が広くなり、換気口の作られたものもある。また、コの字型・ロの字型の校舎では廊下が外側に作られた。普通に考えれば、教室を外にした方が広い面積をとれるはずである。しかし、ここでも採光を優先し、教室を内側に入れたのだ。
 そして、天井は高い物となった。戦後の一般的な学校建築は高さ3m程度だが、復興小学校は3.5mと規格化されている、工費は上がるが、環境は改善される。

・敷地活用
 地方の古い小学校であると横長が多い。しかし、東京でそんな用地は取れなかったため、コの字型やロの字型が採用された。その内には校庭を入れたのである。(麻布の狭い中庭を想像しないで欲しい。「校庭」である。)

・復興小学校の今
 120校近く建設されたが、現存するのは定義によるが10校程度である。老朽化や近隣のマンション開発による教室不足により特に近年解体が進んでいて、現在も九段小学校が解体の方向に動いている。

教室棟の特徴
 ようやく本題である。前章を見ても、教室棟が当てはまる復興小学校の特徴が多々あると分かったであろう。ここでは、それらを中心に具体的な構造や意匠について紹介する。
なお、「復興小学校と類似するというが単に当時の一般的な建築ではないのか」という指摘をされそうなので、返答しておく。復興小学校は東京を新時代の都市とするためになされた革新的改革の一部であり、震災直前の東京の小学校とも、同時代の農村の小学校とも一線を画するモダニズム建築である。そのため、復興小学校との類似というのは特異性として語れるだろう。

・外面
 時計台部分を除けば、シンプルな構造である。塗装も白一色である。これは手抜きではなく、後期の復興小学校にも多くみられるモダニズムの流れを受けた物だろう。窓枠がアルミサッシ化されているため、現在では創建当時より地味に見えていると思う。
だが、時計台部分は内部に中央階段を配置した為に膨らみ、類を見ない独特の構造となっている。また、窓面積率が高いのも特徴である。
また、理由は不明だが、第一期校舎と第二期校舎では中庭側の柱の太さが異なる。教室間に位置する柱のみ、他の2倍になっているのだ。

・内部基本構造
 最大の特徴は中央階段である。これは、その広い幅と踊り場、そしてグランドへ抜ける位置という事からして避難用と考えられる。ただ、復興小学校の規格では、階段は更に広いものとされている。

・天井
 廊下で3.35m、中央階段のみ3.6mであった。3.5mという復興小学校の規格と同様、高くとられている。現在では貼り天井が多いが、復興小学校も教室棟も素のままである。

・廊下
 幅については、復興小学校の規格の2.7mに対して2.35mしか取られていなかった。用地の問題だろうか。ただ、復興小学校の場合は廊下にロッカーなどが置かれることが想定されていたようなので、実際は同程度だったのかもしれない。
また、理由は不明だが、第二期校舎においては柱の廊下に飛び出る幅が大きい。

・廊下外側の窓
 理由は不明だが、第二期校舎においては高さが低く、中庭側と同じ75cmである。対して、第一期校舎では中庭側より高く100cmである

・柱
 麻布は柱が多い、というくらいなら校内で常識になっている。教室内の柱の幅は54cm、柱の間隔は255cmであった。復興小学校の柱の間隔である280cmというのが柱の幅を含むのか分からないし、教室内とその他の場所で同じ幅だったのかもわからないが、ほぼ同じではある。当然ながら、同時代の一般建築や現在の建築ではここまで多くない。

・教室
 中庭側の窓の高さは75cm。また、窓が天井の柱の高さまでいっぱいに取られている。両方、復興小学校と共通することだ。
また、第一期校舎においては、廊下との仕切りとなる壁の中央上部に換気口が付いている。これは復興小学校にも見られたもので、感染症予防だったとされる。

・細部の意匠
 柱と天井の接合部に、モールディングと呼ばれる漆喰の細工がなされている。この種の細工は古い洋館などでは見られるが、何の実用的価値もないため、現在の一般的な建築では廃れている。
また、窓枠は階段状(?)のものが多く使われている。これは西洋建築の一般的な手法だと聞いたことがある。一部の教室では何の細工もない木材であるが、それらは元々大教室であったものを潰して普通教室に改装した為だと思われる。

まとめ
 麻布学園普通教室棟は、関東大震災後という時代背景に基づいた、防災思想と新教育思想の読み取れる貴重な物件であるとともに、戦後の建築では一般的でない構造や意匠が見られる。これは麻布学園の初期といって良い時代から現在までを記録している建築であるので、可能な限り現状維持とあってほしいが、数十年後には改築が避けられないだろう。その時に、時計台部分の外観のみ保存または復元され、その他の重要な特徴が見向きもされず消え、「コスパ」のみを重視した味気ない姿となるのは惜しいことである。現在の校舎に込められた思想を守りとおさずとも、せめて、この校舎には深い思想が込められていることを理解し、建築後に評価される新時代の思想を込めた改築としてほしい。

参考文献
関東大震災と「復興小学校」: 学校建築にみる新教育思想
明石小学校の建築
港区の学校建築―震災と復興
麻布学園100年史
各種webサイト(メモするの忘れた)