葵祭に行ってきた。授業で。
木曜2限はスポーツ実習。私はサッカーなどを選ぶはずもなく、当然のウォーキング選択者。
京都では大学周辺のウォーキングとなると当然史跡めぐりになる。前回は下鴨神社であった。受講者のほぼ全員が文学部なので、神道や日本史について語りだす。
そして今回は葵祭。行列が河原町通丸太町~今出川を通過する時刻と授業時間が見事に被った。ということで、大学から河原町丸太町まで歩き、そこで現地解散し各自見学。
といっても、下調べしなかったし、人ごみが酷く、しっかりは見ていない。感想としては、牛車がうるさいこと。牛が暴れるのではなく、木製の車輪がかなりきしむ。牛車で混雑した往時の公家屋敷は「雅」とはかけ離れた雰囲気だったかもしれない。
行列を追い越しつつ河原町通を北上し、下鴨神社に行った。ここで行列を先頭から見送った。そして境内に行列に有ったので、とりあえず並んでみた。
しかし中々進まない。モラルの欠けた人々は立ち入り禁止の場所に侵入したり警官の指示を無視したり、ひどい有様。「そこに入らないでください」よりも「世間様の見る前でそんなことをして恥ずかしくないんですか」「お孫さんが今のあなたをみたらどう思うでしょうね」とか注意した方が効果ある気がする。
結局、最奥部までは当分入れないと分かったので途中で撤退。まずまずの収穫。
引っ越して未だ1月と少しだが、「京都在住のゆとり」は出てきたと思う。どうせまた来れるから今日の見学に本気にならなくてもね、という。
そういえば、フィットネスの受講者と河原町通で有ったので、あちらも葵祭に来た模様。葵祭を理由に休講になった授業も有るらしい。流石京都。
2014年5月15日木曜日
2014年5月10日土曜日
京都市立小学校建築探訪 旧開智小学校編
東京の「復興小学校」のデザインや歴史的背景が好きなので、今度は同時代の京都市立小学校の建築を見に行った。
※復興小学校:関東大震災後で東京の小学校の多くが校舎を失った後に、基本的には一定の規格に沿って作られた小学校。
まずは旧開智小学校。1935年の作。現在は学校歴史博物館に転用されている。展示内容は面白いのだが、あまり関係ないので省略。
正門前の道路。普通車のすれ違いは不可能なのでは。正門前がここまで狭いと混雑など色々大変そうだが、京都市中心部なので仕方ない。
正門。同時代の東京の小学校の正門は石柱の間に鉄製の門が付くのが多かった気がする(Ex.泰明小学校フランス門)が、これは和風。
校舎。車寄せと、その上のコンクリート打ちっぱなし部分は近年の設置。
教室の窓の下の黒い点は換気口だと思う。東京のものでは、明石小学校の写真で同じものが確認できた。
ちなみに、同時代の旧制中学校舎である麻布学園教室棟には、外見が似るが穴が貫通していないため機能性は無いものがある。
3階部分から一部分だけ上に飛び出している。ここが階段。ありがちな構造だろうが、東京の常盤小学校を思い出した。
いざ内部へ。
床は板張り。雰囲気は東京の復興小学校にまあ似ていると言って良いのでは。
しかし、見過ごせない大きな違いがある。教室内の柱の本数である。東京では教室の中間に2本の柱を入れる規格を作成してそれに基づいて建てたが、ここは1本である。東京が2本入れる理由は関東大震災を教訓とした耐震性への配慮であろう。
また、教室と廊下の間の窓の高さも違う。東京では外から覗けない高さまで壁を作り、その上に窓を設置した。しかし、ここでは窓が低く小学生でも覗き込める。この高さの意味については当時の教育思想が関係していたはずだが、本が手元にないので省略。
(「関東大震災と「復興小学校」学校建築にみる新教育思想」に書いてあったと思う。)
階段。茶色の部分は人造石研ぎ出しというありがちな素材。
壁と天井の接合部に「繰型」というものがある。ただのデザインだが、細部に一芸を光らせるのは良いこと。現代の学校には無い気がする。
全体の感想としては、カクカクした印象を受けたので、あまり好みではなかった。丸柱とかアーチ窓が好き。
(「カクカク」というのは東京の小学校規格検討の際に批判されたことの1つだったと思う)
ただ、部分的には良いものがあったし、東京と京都の比較が出来たので有意義だった。
※復興小学校:関東大震災後で東京の小学校の多くが校舎を失った後に、基本的には一定の規格に沿って作られた小学校。
まずは旧開智小学校。1935年の作。現在は学校歴史博物館に転用されている。展示内容は面白いのだが、あまり関係ないので省略。
正門前の道路。普通車のすれ違いは不可能なのでは。正門前がここまで狭いと混雑など色々大変そうだが、京都市中心部なので仕方ない。
正門。同時代の東京の小学校の正門は石柱の間に鉄製の門が付くのが多かった気がする(Ex.泰明小学校フランス門)が、これは和風。
校舎。車寄せと、その上のコンクリート打ちっぱなし部分は近年の設置。
教室の窓の下の黒い点は換気口だと思う。東京のものでは、明石小学校の写真で同じものが確認できた。
ちなみに、同時代の旧制中学校舎である麻布学園教室棟には、外見が似るが穴が貫通していないため機能性は無いものがある。
3階部分から一部分だけ上に飛び出している。ここが階段。ありがちな構造だろうが、東京の常盤小学校を思い出した。
いざ内部へ。
床は板張り。雰囲気は東京の復興小学校にまあ似ていると言って良いのでは。
しかし、見過ごせない大きな違いがある。教室内の柱の本数である。東京では教室の中間に2本の柱を入れる規格を作成してそれに基づいて建てたが、ここは1本である。東京が2本入れる理由は関東大震災を教訓とした耐震性への配慮であろう。
また、教室と廊下の間の窓の高さも違う。東京では外から覗けない高さまで壁を作り、その上に窓を設置した。しかし、ここでは窓が低く小学生でも覗き込める。この高さの意味については当時の教育思想が関係していたはずだが、本が手元にないので省略。
(「関東大震災と「復興小学校」学校建築にみる新教育思想」に書いてあったと思う。)
階段。茶色の部分は人造石研ぎ出しというありがちな素材。
壁と天井の接合部に「繰型」というものがある。ただのデザインだが、細部に一芸を光らせるのは良いこと。現代の学校には無い気がする。
全体の感想としては、カクカクした印象を受けたので、あまり好みではなかった。丸柱とかアーチ窓が好き。
(「カクカク」というのは東京の小学校規格検討の際に批判されたことの1つだったと思う)
ただ、部分的には良いものがあったし、東京と京都の比較が出来たので有意義だった。
2014年5月7日水曜日
今宮祭2014
5月5日に今宮祭に行ってきた。大学の課題で京都近辺の祭りの見学レポートを書かなければならないので。
神社の歴史はココを見ればわかるので割愛。
10時に神輿を拝殿から降ろすので、9時15分ごろに神社入り。
9時25分ごろに地元の男性達が集まってくる。 老いも若きも。しかし女性は子供を除いていない。
9時55分ごろに集合がかかり、参加者たちが本殿で礼拝。 この時間はあいにくの本降りの雨。神輿の側面を透明ビニールで覆ってから舞台から降ろした。降ろすときの掛け声が「ワッショイ」ではなく「エイサ」「ホイショー」「ヨーサー」などだった。「ワッショイ」の掛け声も後に氏子地域内を引き回すときには上がっていたが。
神輿を下すと、担ぎ手を増やすために更に長い棒に神輿を接続する。舞台に上げられているときの神輿は、担ぐための棒がかなり短い。
ちなみに、「担ぎ手」と書いたが、ここの神輿は担いで巡幸するのではない。基本的には台車に載せて綱で引っ張り、主要な交差点数か所で台車から降ろして少し動き回る。人が足りないらしい。まあ、トラックで巡幸する神社もかつてあったそうなので、人が居ないことはないのだろうが。
この接続に結構時間がかかり、11時に神輿が神社を出た。本降りの雨なので、鉾など神輿以外の巡幸は省略。残念。
私が着いて行った大宮神輿は神社から北東の地域を一周した。沿道にあまり人は居なかったと思う。
この巡幸は午後に比べれば短いもので、12時には神社へ帰着した。そこで担ぎ手の昼食休憩も取られた模様。
待機している神輿を女性観光客がベタベタ触っていた。すると地元の女性から「女の子は触らんといて」と注意。ここは女神輿を導入していないので、神輿は男の仕事。
12時40分に再度集合がかかり、今度は大規模な巡幸にかかる。 今宮通を西進して千本通を南下、北大路で東に入り旧大宮通まで。ここが大徳寺前。京都新聞の写真はここで撮られていた。
さらに旧大宮を南下し、低層木造家屋密集地域に入る。所謂西陣、織物業者が多い。しかし休日な上に神輿で騒がしいので織機の音は聞こえず。
普通車がすれ違えるかどうか怪しいような道を大きな神輿が進んでいく。標識にぶつかりそうになることもあり、難しそうな巡幸である。
ただ、こういう地域になると一家・親族・隣近所で集まって宴会をしながら神輿を待ち、神輿がやって来ると外に出てくる家も増えたように思う。
こうして千本寺之内に出た。寺之内通を西進し、 また小路を進んでいく。ここも織物業者が多い。神輿の休憩が長かったので静かな路地をさまよっていると、織物業の看板も出さない小さな日本家屋から織機の音が聞こえてくる。これが西陣織の制作現場なのだなぁ~と感動していた。教科書の一問一答的記憶が、こうして身体の記憶となっていく。
その後、千本通へ出て北上する。この辺りでは鉾を門前に飾る家がいくつかあった。町として鉾を所有している地域である。
千本通を東に入り、小路を抜け、大宮通を北大路の近くまで北上すると御旅所に到着する。御旅所とは仮設の物かと思いきや、日常的に神社の管理地であり建物もたっている。ここには雨の中屋台が立ち並び、賑わっている。無事神輿が台に乗せられたのを見届けて、さっさと帰った。文章だと軽い散歩に見えるかもしれないが、午前中1時間・午後4時間、普通の鞄とカメラバッグを担いで歩き回っているのだ。久しぶりに疲れた。
神社の歴史はココを見ればわかるので割愛。
10時に神輿を拝殿から降ろすので、9時15分ごろに神社入り。
9時25分ごろに地元の男性達が集まってくる。 老いも若きも。しかし女性は子供を除いていない。
9時55分ごろに集合がかかり、参加者たちが本殿で礼拝。 この時間はあいにくの本降りの雨。神輿の側面を透明ビニールで覆ってから舞台から降ろした。降ろすときの掛け声が「ワッショイ」ではなく「エイサ」「ホイショー」「ヨーサー」などだった。「ワッショイ」の掛け声も後に氏子地域内を引き回すときには上がっていたが。
神輿を下すと、担ぎ手を増やすために更に長い棒に神輿を接続する。舞台に上げられているときの神輿は、担ぐための棒がかなり短い。
ちなみに、「担ぎ手」と書いたが、ここの神輿は担いで巡幸するのではない。基本的には台車に載せて綱で引っ張り、主要な交差点数か所で台車から降ろして少し動き回る。人が足りないらしい。まあ、トラックで巡幸する神社もかつてあったそうなので、人が居ないことはないのだろうが。
この接続に結構時間がかかり、11時に神輿が神社を出た。本降りの雨なので、鉾など神輿以外の巡幸は省略。残念。
私が着いて行った大宮神輿は神社から北東の地域を一周した。沿道にあまり人は居なかったと思う。
この巡幸は午後に比べれば短いもので、12時には神社へ帰着した。そこで担ぎ手の昼食休憩も取られた模様。
待機している神輿を女性観光客がベタベタ触っていた。すると地元の女性から「女の子は触らんといて」と注意。ここは女神輿を導入していないので、神輿は男の仕事。
12時40分に再度集合がかかり、今度は大規模な巡幸にかかる。 今宮通を西進して千本通を南下、北大路で東に入り旧大宮通まで。ここが大徳寺前。京都新聞の写真はここで撮られていた。
さらに旧大宮を南下し、低層木造家屋密集地域に入る。所謂西陣、織物業者が多い。しかし休日な上に神輿で騒がしいので織機の音は聞こえず。
普通車がすれ違えるかどうか怪しいような道を大きな神輿が進んでいく。標識にぶつかりそうになることもあり、難しそうな巡幸である。
ただ、こういう地域になると一家・親族・隣近所で集まって宴会をしながら神輿を待ち、神輿がやって来ると外に出てくる家も増えたように思う。
こうして千本寺之内に出た。寺之内通を西進し、 また小路を進んでいく。ここも織物業者が多い。神輿の休憩が長かったので静かな路地をさまよっていると、織物業の看板も出さない小さな日本家屋から織機の音が聞こえてくる。これが西陣織の制作現場なのだなぁ~と感動していた。教科書の一問一答的記憶が、こうして身体の記憶となっていく。
その後、千本通へ出て北上する。この辺りでは鉾を門前に飾る家がいくつかあった。町として鉾を所有している地域である。
千本通を東に入り、小路を抜け、大宮通を北大路の近くまで北上すると御旅所に到着する。御旅所とは仮設の物かと思いきや、日常的に神社の管理地であり建物もたっている。ここには雨の中屋台が立ち並び、賑わっている。無事神輿が台に乗せられたのを見届けて、さっさと帰った。文章だと軽い散歩に見えるかもしれないが、午前中1時間・午後4時間、普通の鞄とカメラバッグを担いで歩き回っているのだ。久しぶりに疲れた。
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