2014年4月19日土曜日

ミッドナイト念仏

18日の夜、お好み焼き屋に居たら友人から「知恩院でミッドナイト念仏をやるぞ」というメールが来た。これは明らかに「行って来い」という振りだろう。乗らない訳にはいかないので行ってきた。

ミッドナイト念仏とは法然上人の忌日法要に合わせて国宝・三門の楼上で一晩中念仏を唱える行事。名前からわかるとおり、若者などの参加を歓迎している模様。

これは午後8時から午前7時まで実施されているので、相当に気合の入った方は11時間参加していればよいが、私は無理なので途中参加かつ途中抜け。それでも良い、というかほとんどの人はそうする。

2時過ぎに北白川の家を出発して東大路を南下していく。本当に静か。歩行者は当然居ないが、自動車も殆ど居なかった。意外。

2時半に知恩院に着いた。電車・バスが無い時間なので、タクシーの出入りがちょくちょく有る。参加者は近場住民に限らない模様。

写真の三門まで歩いていくと、木魚を叩く音が外にまで響く。かつてない雰囲気。そして意外や意外、若者中心に50人以上の行列。歴史好き・熱心な信者という雰囲気ではなく、いわゆるチャラい系が多い。いや、念仏を唱えに来るのだから普通のチャラ系とは何か違う気もする。さらに、行列が中々進まないので、一部の集団が「空くまで酒を飲みに行こう」といって消えていった。この様な参加者層である。まあ、仏教に触れることは触れているのだから良い面もあるだろうが。

並びに並び、1時間。3時半になって入場した。楼上に上がる階段の下でお坊さんから「念仏なう、と書き込みたい気持ちはわかりますが、楼上ではご遠慮ください。ただ終了後は歓迎です。」との呼び掛け。

楼上からの夜景は綺麗だった。 京都は超高層ビルが無いが、山が近いので高い場所に行きにくくはない。

楼上の部屋に入った。極彩色だが薄暗く、派手さは感じない。正面に仏像がおり目が合う。宗教的空間。

激しい木魚の音。BPMは多分200。「ミッドナイト念仏」なのに、参加者のほとんどは何も唱えていないか小声である。そこは残念。

正座して、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏~」と唱えていく。これを延々と続けていく。木魚の音に包まれた2時間半。

そして、脇の戸口から光が見えた。夜が明けたので6時に帰った。悟ったりトランス状態になったりはしなかったが、木魚のポクポク鳴り響く独特の空間に惹かれるものはある。京都市民であれば来年以降、短時間でも行ってみればよいのではないか。


=その後=
この様に徹夜した後、TOEFLを受けに大学へ。コンディション最悪かつ強制受験制度に賛成できないので鉛筆転がして寝る。

2014年4月13日日曜日

蹴鞠観覧&河原左大臣を訪ねて

京都御所の一般公開は春と秋にある。今日は春の一般公開最終日だったので混雑は予想できたが、蹴鞠の披露が今日だけだったので行ってきた。

御所は宜秋門という門から入ったが、大行列。手荷物検査のせいかと思いきや、随分簡単な検査だった。本当に人が多かったのである。例えたら、「ルーブル美術館展」などをやっている時の国立西洋美術館。自由に観覧していくというより、流れに乗っていく感じ。

10:15に着いて流れに乗って観覧していると、10:30を過ぎた。11時から蹴鞠の披露だが、11時に行っても見られる気がしなかったので、10:35から陣取っておいた。一応最前列を確保。


広場に臨時の蹴鞠場が砂を盛って作られていた。御所には正式な蹴鞠場があるのだが、今日はギャラリーが多いので臨時に略式のものを作ったとのこと。(本当は蹴りあげる高さの基準としてフィールドの四隅に植える植物の種類が決まっているなど色々あるのだが…詳しくはwikipedia辺りへ。)





定刻。 松っぽい植物の枝に鞠を挟んで運んでくる。そこら辺に御幣でも立ってそうな雰囲気。

貴族のゲームなので身分差がゲームに絡んでくる。今回は烏帽子の紐がただ一人紫色の男性が「最も高貴」という設定らしい。
ちなみに女性も参加している。ただ烏帽子は被らない。












さて、競技開始。鞠は鹿皮の手作り品なので、それぞれとび具合が異なる。だから、競技が始まると、まずは各人が3~4回蹴り上げて感触を確かめる。 




 今回は8人で行っていた。1ゲーム15分~20分ほど。wikipediaによると「落とした人が負け」「続いた回数を競う」など勝負用のルールも一応あるようだが、少なくとも今回はゆるゆる蹴り続けていくだけ。

そういうと、まったりした遊びに聞こえる。しかし、そうでもなかった。砂埃が上がるし、転びかける、ぶつかりかける…などなど予想より激しい。また、蹴るたびに「アリ」「ヤァー」など掛け声をあげるので静かでもない。後半になると水干が随分汚れていた。

さて、競技であるが、これが意外と続かない。日本一蹴鞠が上手い方々なのだろうが、革靴でいびつな鞠を蹴り上げるので難易度は高いよう。後半になるにつれて続くようになってはいたが。

そんなことで15分くらい経ち、蹴り上げられた鞠を最も高貴な人が手で受け取りゲーム終了。もう1ゲームが別の方々によって行われたが、同じ内容なので説明省略。

こうして蹴鞠観覧は終了。華やかな衣装、独特の掛け声、意外と激しい動き。伝統芸能というと見てて眠くなるようなもの、というイメージが無いこともないが、これは全くそんなことはなく熱中して見られるのではないか。京都に限らず東京でもやっていることがあるので、一度見てみることをオススメする。

(御所の建築?あぁ混み過ぎてろくに見れなかったのでカットします…。)


午後は河原左大臣源融の暮らした河原院跡を訪ねる。9世紀に暮らした嵯峨天皇の皇子。臣籍降下して嵯峨源氏になっている。ちなみに酒呑童子を退治した渡辺綱は融の子孫。

何故に融が有名かというと、まずは光源氏のモデルの1人と言われていることがある。河原院が光源氏の六条院のモデルとも言われる。

また「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに」が百人一首に入集していることもあるだろう。

ただ私は源氏通読も百人一首暗もしていないので、伊勢物語で出会った。上の歌は伊勢物語初段で「昔男」によって詠まれるし、81段には明らかに融のことを指す「左の大臣」が登場する。

伊勢物語81段は融の河原院で宴会が有り、「昔男」が河原院を称賛する次の歌を詠むものである。

「しほがまに いつかきにけむ あさなぎに つりするふねは ここによらなむ」

河原院は、歌枕・塩竈の風景を模して作られ、融は運び込んだ海水で製塩もしたと言われる。 そのため、昔男は上の歌を詠んだのである。ちなみに「塩竈」は製塩用かまどのことだが、現・塩竈市付近のそれが有名になったため、地名となった模様。

まずは渉成園へ。ここは17世紀に徳川家光の支援で東本願寺が作った庭園だが、融の河原院を真似て作ったと言われる。そのため、融の供養塔といわれる石塔(これは誤りらしい)、 外見が似ることから「塩竈」と呼ばれる石を組んだ泉、融が塩を焼いたといわれる釜の手水鉢などがあった。ただ、いずれについても現地に説明板は無いので注意。














次は本覚寺へ。ここは本物の河原院の跡地の一角らしい。中に入れなかったが、塩釜神社が境内にあり、融の像が安置されているとか。

高瀬川まで少し歩くと、「河原院跡」の石碑発見。 脇の木は河原院の木の生き残り、と言われてはいる。
















河原町通を若干下ると「本塩釜町」の表示発見。そう、この一帯の住所は「本塩釜町」。河原院の庭園は後に荒廃し、「やへむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり」と恵慶法師に詠まれてしまっているが、その名残を地名として今に残しているのだった。
 
やはり政治に名を残した人物より文化的逸話を残した人の方が魅力的ですね。ちなみに融と対になるのは藤原基経。史上初の関白。